“ 昔昔の電話の話 ” 私が電話局に勤めたのは、昭和15年(1940年)のことです。当時、電話事業は郵便事業とともに国の事業で、所管は逓信省、私たちはいわゆる「官吏」だったのでした。当時、大阪の電話局は20あまりの分局があって、約半分くらいの局は自動化(自分がダイヤルして掛けられる方式)されていましたが、後半分は手動式で加入者が受話器をあげると、交換手が「何番へ」と応答して相手番号を聞き接続していたのです。 従って電話事業には多くの人手、特に若い女性が必要とされていました。 ![]() その違いは、5銭は、「チーン」、10銭は「ブーン」というような音でした。 ![]() また市外通話はすべて手動式でした。 中央局には記録台という市外通話受付専門の台があり、受付時間、発信者の番号、通話先の番号を交換証という用紙に記入しそれぞれの接続台へと運びます。 北海道から九州までそれぞれの担当の台があるのです。 各県の主要都市には大きな局があり、小都市はその局から中継されます。 地方の小さい局になると2中継(2つの局を中継する)のもありました。 限られた回線で接続するのですから、時間がかかります。 2・3時間はざら、7・8時間もかかることも珍しくありませんでした。 市外の交換台は、一方の端から眺めても向こう側の端は見えないくらいです。 交換証も気送管という真空式の管を使って送っていました。 また昔はローラースケートで運んでいたという話も聞きました。 電話をはじめ、パソコン、スマホなど、瞬時に繋がる今から考えると想像も出来ないことでしょうね。 私が就職してから電話は着々と自動化が進み、昭和20年ごろにはほとんどの局が自動式となりました。 2013年7月26日 記 牧戸富美子
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