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平安時代の百人一首殿堂 時雨殿を訪ねて

 京都嵐山の小倉山麓にある、百人一首殿堂、時雨殿を訪ねた。阪急電車を嵐山で降り、嵐山公園の中を通って渡月橋を渡る。橋のたもとを左に折れ、川沿いに川上へ進むと、京都嵯峨野、特有の静寂で優雅な建物が軒を並べている。飲食店であっても、けばけばしい看板はなく、静かである。「吉兆」や「らんざん」「べんけい」など、の名前が見える。人力車がたむろしていて、たくさんの人が乗っている。若いアベックも、結構年配のアベックも嬉しそうにニコニコしながら乗っている。
 300メートルもあるだろか、歩いたところに時雨殿はあった。中に入ると、壁一面に百人一首の歌が、美しいかな書きで書かれている。百首もあると壮観である。そして十センチくらいの百人の人形が、歌留多の絵札そのままに作られて大きなガラスケースに収まっていた。また平安時代の「天徳内裏歌合」の場面が作られている。清涼殿西廂における歌合せの模様で、一段高い中央の玉座に村上天皇、その左右に更衣、典侍,下段には公卿、殿上人、判者などの人形が並んでいる。この歌合せの中で二十番目に「恋」という題が出て、百人一首にもとられている有名な二つの秀歌が競い合った。
 右方    しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
           物や思ふと 人の問ふまで     平 兼盛

 左方    恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
           人知れずこそ 思ひそめしか    壬生 忠見

判者の左大臣、藤原実頼は優劣をつけられず補佐の大納言 源 高明に決めて貰おうとしたが高明は平伏してなにも言わない。その時、帝が「しのぶれど」と口ずさんでおられるのを高明が聞きつけ、それを実頼に伝えようやく、右方の勝ちとなった。と言われている。敗者となった忠見は、出世をかけて望んだが負けたことに悲観してその後、食べ物を受け付けなくなりそのまま死んだという話も残っているそうだ。
また漫画の本で、「ちはやふる」といって、歌留多競技を題材にした少女漫画が大変人気があるようで、その本が閲覧できるように、たくさん置かれていた。私も昔よく歌留多競技をしたことを思い出して懐かしかった。
また二階に上がると、十二単の簡単な衣装の着付けをしてくれて、若い人たちが写真を撮り合っていた。
帰りには嵐山花灯路のいろんな灯篭が置かれているのを見て夜だったらきれいだろうなと思った。

記 牧戸 富美子  

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