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南国の楽園 “ タヒチ ”へ ひとっ飛び
【 その5 : ゴーギャン 】

ゴーギャンがヨーロッパの古い習慣と衰退の現実から逃れるためにタヒチにやって来たのは1891年、43歳の時であった。ここで文明社会に毒されず生きる人々の美しさに目を見張ったと言う。
1848年パリで生まれた彼はすぐに両親の都合でペルーのリマに移り住んだ。7歳でフランスにもどり、神学校を出て、船員となりリオデジャネイロ航路に就く。退職してフランス海軍へ3年間、除隊して、保険会社に勤めながら趣味で絵を描く。デンマーク出身の女性と結婚し、5人の子供を授かる。絵が入賞し始めると、ピサロ、ゴッホなどと交流、画業に専念し、コペンハーゲン・パリ・ブルターニュ地方・プロヴァンス地方などと移り住む。南仏でゴッホと共同生活を始めわずか2ヶ月で破綻したのは有名。その事がタヒチに新しい自分の居場所を求めたともいわれている。
ゴーギャンはポリネシアの風土と少女の様な女性に魅力を感じ、同棲生活をし、制作を意欲的に取り組んだ。
一度フランスに戻るが、自分の居場所がなく再びタヒチにやってくる。その時タヒチは王朝が滅び、フランスの植民地となっていて以前の魅力が感じられず、さらにさらに離れた島に移り住んだ。その度お相手は違った少女。
1897年最愛の娘マリーヌが死去。死を悼んで制作したと言われる「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々は何処へ行くのか」の大作完成。これが彼の最高の傑作らしい。この作品はボストン美術館が所蔵している。完成後ヒ素を服用して自殺を試みるが未遂。
さらにタヒチから1500キロも離れた島に移り、自叙伝「ノアノア」出版。2年後1903年心臓発作で死去54歳。
最後まで理想の楽園を求め、制作と病と生きる証を見つめる実生活の中で闘い続けた画家である。
 タヒチ島には最初住居にしていた近くにゴーギャン博物館が建てられて、当時の写真や複製の作品や愛用品が展示してある。しかし実物の作品はひとつもなく、死亡証明書だけが本物とは皮肉な話である。
        タヒチシリーズ修了
記 上村 サト子

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