2011年3月に発生した東日本大震災で原子力発電所の安全神話は崩れました。
私が初めて原子力発電所と関係したのは昭和48年(1973年)です。
原子力発電所の建設は進められていました。関西電力美浜発電所は、1970年11月28日電力会社として初めて運転開始しました。
当時開催されていた吹田の日本万国博覧会に約1万kwを試送電したとのニュースを聞いていたものです。
その当時の国内外では、第4次中東戦争で石油危機を招いていました。
「石油の供給制限による生産削減でモノ不足が発生する」という噂で一部の消費者がトイレットペーパーや洗剤の買いだめに走り商店側も混乱、さらにマスコミが不安をあおっていました。
当時としては石油がなくなれば、次の燃料としては原子力ではないかと真剣に考えていた時期です。
関西電力としては、大飯の大島半島の先端に発電所計画をし着手していました。
当時は、大飯から大島へは定期の船便は有りましたが便数が少なく、私達は大島の民宿の方の漁船に乗せてもらって往来していました。
大島は静かな漁村で、数軒の釣り客用の民宿がありましたが、殆どが漁師でした。
建設予定地に行くのは、大島から山越えの小さなトンネルが有りました。 半島の先端には小さな谷間があり小さな農地が有りました。
半島の先端ですから、農地が有るといえども小さな谷川で夏場には水がなくなります。
雨水だけでは水が足りないので、まず最初に海水から真水を作る装置を作る必要が有りました。
そこで仮設用の真水製造設備を作る事になりこれが原子力発電所の仕事に携わった最初です。
装置は工場で作り、海上で輸送しますが現地の大島で陸揚げする装置も有りません。まず岸壁から建設する必要が有りました。主要大型機器はチャーターしたクレーン船で陸揚げしましたが、小さな機器は漁船にお願いして大飯から大島に運び大島の陸上に簡単な荷揚げ装置を作ったことを思い出します。
当時原子力発電所の建設に携わった一員としては、全ての段階の建設素材から品質管理を徹底して行い、検査を受け、百年単位の稼働に耐える設備を作って、安定したエネルギー供給をしたいと、情熱を燃やしていました。
建設地の住民の方々も同じ気持ちであったと思っています。
記 大岡 成一
下の写真は、建設当時(1973年)の写真です。(写真をクリックすると大きくなります)
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