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" 高槻の天神さん、真上氏のルーツを辿る! "
散策に参加して(その3/3)


田中家
← 近世庄屋田中家屋敷
・真上村は東西に広がり、西は本郷、東は光徳という。光徳は荒神塚の周辺に江戸時代後期まで存在した光徳禅寺に由来する。
・光徳垣内の庄屋は田中六右衛門、與兵衛家、本郷は田中喜右衛門家、喜右衛門は室町末期幕府と対立関係になり、安芸國に退去していた芥川真上氏の嫡流が、秀吉時代に帰村、西真上に屋敷を構え、庄屋に就任した。

笠森神社境内
戦後昭和40年頃までは、この屋敷は宏大で、大木が生い茂り、うっそうとしていたが、周囲が開発され、屋敷も縮小され昔の面影はない。
江戸時代には門前に薬師堂、高札所、郷倉があり、村の中心であった。
今郷蔵跡には西真上集会所が建ち往時の姿はみられない。
非常に残念のことです。

真上戸手
真上戸手
・現存する唯一の戸手 今も水が涌いている。電動ポンプで水をくみ出しているが、
・これは、戸手と呼ばれるもので、水が湧き出る大きな井戸のようなもので、芥川の渇水期にもこの伏流水は枯れることがなく、そこから水路に水を引き農業用水として利用していました。
井戸の場合は、地面より高く水位が上がることはありませんが、戸手は地面より高く自噴する湧水です。
笠の森神社
・笠朝臣を祀る村の鎮守、江戸時代は天然痘の神様として信仰された。
「かさぶき」と「笠」をかけたものである。
・高槻市史で中世史家河音能平(かわねよしあき)氏は、真上氏の城の屋敷神としたが、これはまちがいであることを拙著「芥川上流域における水論の史的研究」で明らかにした。
城の位置はここではなく、この神も個人が信仰する鎮守にすぎなかった。
・河音能平氏は、15世紀末、真上氏が滅亡した後、新興の中村氏が城跡を購入し、その屋敷神を自家が祀ったものとしたが、100年後の文禄検地のとき、この屋敷3反半は我が先祖古藤與兵衛の所有であり、古藤氏を経てその後中村氏に渡った事実が資料解読で明らかになった。

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