古曾部の能因塚

「古曾部の暦史探訪」能因塚
正式には、「伝能因法師墳」ですが、「能因法師墳」「能因のお墓」で、田んぼの中にぽつんとあるこんもりした塚が「能因塚」です。
三十六歌仙の一人である能因法師は伊勢姫を慕って移り住んだとも言われ、伊勢寺から近いことを考えるとそうなのかなと思えます。
能因法師墳」は、東西16m、南北25m、高さ1.8mの小塚で、平安時代中期の歌人、能因法師の墓と伝えられている。
長和3年(1014)頃、橘永トは出家して名を能因と改め、やがて古曾部に居を構えて歌道に専念した。それは「今昔物語集」(12世紀初め成立)に古曾部入道とあることからも知られている。
能因はここを拠点として、各地を旅し優れた作品を数多く残している。また古曾部に住み着き生涯を閉じた僧で歌人です。

能因塚その1


能因塚その2
 
「あらし吹く 三室の山のもみじ葉は 龍田の川のにしきなりけり」

は小倉百人一首にある能因法師の和歌です。
墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)高槻城主 永井直清が建立した。碑文は儒学者の林羅山によるもので、能因の事跡が刻まれている。

「山寺の春のくれ やまざとをはるの夕ぐれきてみればいりあいのかねに花ぞちりける」


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