会員便り
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”戦後60年にあたり”
平成17年は、戦後60年にあたります。”内戦と大戦もない今の國の現状を大切にしたい”
小学校6年生で終戦を迎えた筆者は、「銃後の良い子」として厳しい教育を受け、目上の者には絶対服従だった。今では体罰に当たるような行為もあった。
戦局が激しくなるにつれ食糧難で、白湯に浮かんだ少々の米粒の入ったお粥、代用食としてサツマイモ、カボチャは貴重な食料でした。衣食はすべて配給された。
空襲が激しくなり、都市の小学生達は地方の親戚に、縁故のない者はお寺等に宿泊して集団疎開生として親元を離れて地方での生活が始まった。
地方でも食料状態は厳しく、イナゴ、バッタ等も佃煮にして食べ、今では殆ど死語となってしまったノミやシラミが容赦なく身体についた。でも皆我慢して戦勝を信じ、農家の手伝いの合間に勉強し頑張りました。
然し、昭和20年8月15日を堺に世の中は一変した。身内を戦災で亡くした大勢の孤児達が町にあふれ、東京では約130,000人の孤児が居たとの事。東京に限らず他の都市のも路上生活児がいっぱいで進駐軍の兵隊達の靴磨きをして、その日の食料を稼ぎ頑張りました。
沢田美喜氏が私財を出して”エリザベス・サンダースホーム”を創設、また”トンガリ帽子”の歌で知られるホームが群馬県前橋市に、その他の都市でも孤児達が住める施設が大勢の援助に依り出来ました。
また戦地から復員して来た兵士や一般人が着のみ着のままで祖国に辿りついた。
一番心に残るのはシベリヤ抑留の人達が舞鶴港に引き上げたのは、戦後十数年を経ってからだった。女性達はロシヤ人に辱めを受けるのをのがれる為に丸坊主頭で男装をしていた。
”岩壁の母”の歌の様にいつ迄も、いつ迄も、我が子の帰国を待ち続けていた。
戦後の混乱期を支えたのは、現在の70歳代後半から上の方達の努力に依り安泰とした日本になった。
この平和の国への成り立ちをしっかりと受け止めて、21世紀に生きて行く人達に平和の維持を受け継いでほしいいと願望します。
N.Y より
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