会員便り
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"世界を巡る‥イスラームの世界”

関西大学公開講座を受講して(その4/6)
第3回【現代世界のイスラーム主義運動とパレスチナ】


 講師 国立民俗学博物館 臼杵 陽(うすき あきら)教授    

なぜ「イスラーム原理主義運動」ではなく「イスラーム主義運動」か
   原理主義は、英語のファンダメンタリズムがそのまま日本訳されており悪意が含まれているため、研究者はこの言葉を使わない。
今回の講義では、テロリズムに関わる内容が主体となっているが、これもイスラームの一面ということであり、イスラーム=テロと短絡すべきではない。
9・11事件(2001年)とパレスチナ問題
    ブッシュ米政府によるパレスチナ和平の仲介は、パレスチナ問題をテロリストに利用させないという理由からであり現在も変わっていない。
 一方、ビン・ラーディンにとっては、パレスチナ防衛としてのジハード(聖戦)であり、1998年、ビン・ラーディンらが「ユダヤ教徒・十字軍に対するイスラーム世界戦線」を結成して米国に対するジハードを呼びかけた。
 米国はユダヤ人国家イスラエルを支援しているためにエルサレム占領を直視しない等々をジハードの理由として、軍人、民間人を問わず、米国人とその同盟者の殺害がムスリム(イスラーム教徒)の義務としている。
エルサレムは、メッカ、メディナに次ぐ聖地であり、岩のドームがシンボル的存在。
    第一次世界大戦後、英仏によるアラブ世界の分割が、ビン・ラーディンのいう[80年間の屈辱と不名誉]として根底にある。
ソ連によるアフガニスタン侵攻(1979年)では、ビン・ラーディンの師のアッザーム師がジハード活動の理論的指導者となり武力によるイスラーム国家の樹立に動くが暗殺された。
イスラーム解放党は、更に過激なテロリスト中のテロリストといわれている。
    1967年第三次中東戦争後、ヨルダンに拠点を移し、独仏英さらにトルコ・インド・ パキスタン、現在中央アジアへと組織を拡大している。
イスラーム世界は、友達の友達は皆友達だ方式で増やしているので外からは見え難い。
パレスチナの枠内で非宗教的民主国家をめざすパレスチナ解放運動からパレスチナ
    のイスラーム国家へと変質してきている。
 大衆組織をもつ国民政党ハマースは、ビン・ラーディンとは一線を画し、パレスチナ国家をイスラームの手段で達成しようとしている。
 今後、ハマースがパレスチナ自治区の評議会選挙でどこまで躍進するかが注目される。
講師の臼杵教授は、頬から顎に密集した立派な髯に覆われた顔に眼鏡をかけておられ、いかにもアラブ風の感じの方でした。
  
本講義の参考文献中に次の自著があります。
臼杵 陽『世界化するパレスチナ/イスラエル紛争』岩波書店、2004年
臼杵 陽『イスラムの近代を読みなおす』毎日新聞社、2002年

T.Y 記         

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