戦争の思い出
(解説)
「戦争の思い出」(本文)の中で終戦後の生まれの方は、理解出来ない言葉があるのではと思い解説します。 縁故疎開や学童疎開 学童疎開は太平洋戦争勃発の昭和16年(1941年)ごろから国が検討し始め、戦局が悪化し、「学徒動員」が始まった昭和18年(1943年)にようやく「都市疎開実施要項」が閣議決定され、東京都の区部、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸などを疎開が必要地区としていた。当初は「疎開先は自分で探せ」という方針で、各自が縁故を頼って疎開先を探す「縁故疎開」が原則だったが、昭和19年(1944年)6月には「学童疎開促進要項」が閣議で決まり、全国十三都市の国民学校初等科児童の「集団疎開」を始めた。この年の9月には全国で41万6千人余りの児童が疎開していたとされる。 下記を参照下さい。 遺品でたどる「学童疎開」 浅井歴史民俗資料館で「終戦展」 焼夷弾 B29から投下される焼夷弾は、カプセルのような構造に子が収納されて束ねられている親子爆弾。 このカプセルが投下されると、途中で分解し、中から多数の焼夷弾が飛び出す。 焼夷弾の落下時の姿勢を安定させるための尾部のリボンに、 カプセルを分解させる時の火薬により火が付くので、落ちて来る焼夷弾は、まるで火の雨に見える。 子爆弾が地面に激突すると、頭部の信管が作動し、2、3秒後に頭部が爆発する。その勢いで、ナパームが燃えながら四散する。 下記を参照下さい。 大阪市内で戦争と平和を考える 艦載機 軍艦に搭載する航空機で、飛行甲板を用いないもの。カタパルトまたは水面から発進し、水面に降着する水上機である。ヘリコプターの発達で今日この機種は後を絶った。旧日本海軍では航空母艦から自力で発進する艦上機と区別していたが,現在は一般にはこの区別は明確でなくなった。 終戦間際になると、近海に迫った空母艦載機からの空襲や艦砲射撃が日本本土を襲うようになりました。大分県保戸島では、小学校(国民学校)の校舎にむけて艦載機が爆弾を投下、多くの子どもたちの命が奪われました。茨城県では、鹿島灘沖に来た米艦隊の艦砲射撃で多くの住民の命が失われています。 終戦の詔勅 ラジオやテレビでは何度もお聞きしていると思います。 一度、下記で終戦勅語を精読しては如何ですか。 終戦8・15の記憶 玉音放送の全文<現代語訳付き> 通勤地獄(悲惨な通勤) 電車の乗車率の目安は、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。 調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、いったいどれだけの混雑なのだろうか。 「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図 2022年8月15日 VG槻輪 編集部門
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