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戦争の思い出(本文)

今日は終戦記念日です。

 戦争で日本軍の情勢が思わしくなく本土に空襲の危惧があり、学童疎開や縁故疎開などが行われだしたころ、父が勤めていた会社の社宅が高野線の萩原天神にあり、そこへ疎開することになりました。
日本人を最も飢えから救った食べ物
 父はその会社の厚生課に勤めており、社宅の管理人として一家で居住することになりました。家は一戸建ての庭付きお風呂付の、上級社員向けのものでした。
よく覚えていませんが20軒くらいあったのではないでしょうか。
 大阪大空襲のときは遠く北の方角に焼夷弾の火花が花火のように続き、赤々と燃え上がるさまが見えました。
 翌朝からは荷車に荷物を載せ、頭や体に包帯を巻いた人たちが引きも切らず道を通って避難していきました。
 私たちは父のお蔭で空襲の怖い目には合わず、食糧難の時代に田舎であるため、都会の真ん中で暮らすより少しは農作物も手に入りやすかったと思います。
21日で卵の殻から生まれるヒヨコ
 庭にさつま芋カボチャなどを植え、鶏を飼ったりしました。
きっちり21日目に卵からヒヨコが生まれるのを知りました。
 空襲はありませんでしたが、艦載機の急襲があり、そのアメリカの飛行機の操縦兵の顔がはっきり見えたのを覚えています。
その飛行機が落としたタンクのようなものが社宅の一軒に落ち、昼寝していた子供がなくなりました。
 終戦の詔勅もそこで聞きました。
雑音の多いラジオで内容が判らず、「頑張りなさい」と言われていると思っていたら、隣のご主人から「戦争がすんだよ」と伝わってきて、家中呆然となったのを思い出します。
戦後の満員の通勤電車
 戦争が終わってからの大阪への通勤が悲惨でした。
 日本で東京新宿線と大阪高野線が一番混雑すると言われていたそうです。

  令和4年(2022年)8月15日
記 牧戸 富貴子  

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