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“ 長崎への旅日記 ”

 暑い日が続きます。
身体も大分慣れてきたようですがあとしばらくで涼しくなることを願うばかりです。
私ことで恐縮ですが読んでいただいたら幸いです。
 2010年8月11日早朝、一番列車に乗って青春18キップを使って、孫2人(中学2男、高校1女)を連れ12回、快速や普通車を乗り変えて長崎まで行ってきました。
日本26聖人の出発の地、京都のフランシスコの家を8月4日に籠氏とともに訪問して心の準備をしました。
殉教者が歩いて行った道のりを偲びながらの旅でした。
倉敷に途中下車して、大原美術館見学して昼から又普通車に乗って夜9時に博多に着きました。
 我が祖母、祖父の生まれ育った所です。
12日、朝8時に博多を出て昼に長崎に着き、原爆資料館や平和公園で午後を過ごし祈りました。
 原爆は人類の弱さ、罪の深さをあらわしてあまりある悲しみと反省を呼び起こします
自国が生きる(平和?)為に戦争(準備)するとはずいぶん矛盾した理論です。
現在25,000発の核爆弾が世界に保有されています。
夜は浦上教会の前のカトリックセンターに泊まりました。
聖公会の青年達も20名ほど宿泊していました。韓国の青年達と交流しているとのことでした。
夜に娘も飛行機できて4人旅となりました。
 13日、鐘の音に起こされて、6時のミサにあずかりました。100人ぐらいの信徒 の祈り、女性はほとんど白いベールをされていて懐かしい気分と静けさを感じまし た。聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の記念館の小崎登明修道士(本名が田川 幸一さんで孫と同姓同名が縁で4年前から、夏の練成会に孫は参加)の案内で九十九 島や26聖人が上陸した港の記念碑を訪問しました。永井隆博士の「如己堂」を訪れ 記念館でお孫さんの永井徳三郎氏にお会いする機会を得ました。「滅びず、亡くなら ないものを残す生活を送らねばならぬ」。あと3年の命と宣告されたとき、果たして 「亡びぬもの」を求める真の生活とは。
13日もセンターに泊まりました。1泊3000円です。
 14日は聖マキシミリアノが第2次世界大戦のときアウシュヴィッツ強制収容所で、 ある父親の身代わりとなって殉教した(1941.8.14)命日です(私が生また 年)。「聖母の騎士修道院」の教会では赤尾満治院長(神父)の司式(山浦義春神父 他10名以上の神父様が共同司式された)で記念ミサが200名ほどの参列で11時 から行われました。他人の身代わりになる行為はその後のアウシュヴィッツ強制所に 「人間愛について考える」きっかけを与え、絶望していた人々に希望を与えたので す。
 ミサの後、コルベ記念館の裏山の彦山にのぼりルルドの泉のような清らかな湧き水を たくさん飲んできました。
午後は長崎の「出島」の復元された建物群を見学しまし た。
その中に日本ではじめてできた明治初期の聖公会の神学校の立派な建物がありま した。補強され修復されて当時の姿を今に伝えています。
14日午後8時30分発の夜行バスに乗り15日朝7時に大阪に着きました。
長崎は市電が150円で乗れますが坂の多い谷合いの町、信仰の町、坂本竜馬ブームですが軍隊や兵器工場ができた町でもあり、原爆が落とされたキリシタンの受難の町(信徒13000名のうち8500名がなくなる)。
 平和について深く考える旅でした。

     2010・8・15 (65回終戦記念日)

文責 神保 吉孝            
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