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5月 活動報告
高槻ボランティアガイド研修
第4回講座

「高槻城跡界隈」(その4/4)

5.高槻城を歩く(主な案内スポット)
1)高槻城跡碑(城跡公園入り口)
  昭和50年の本丸発掘調査で発見された本丸石垣石の一部を屋外展示。
六甲山産や小豆島産の石
★よくある質問
Q:「城跡公園にある噴水の池の石垣は本物ですか」「石垣はどこで見れますか」
A:「噴水の石垣は本物ではない」「石垣の石は、@高槻城跡地に碑の基礎部の石、石にマークが付いています。A商工会議所南の記念碑、Bしろあと歴史館前と中、上神天満宮の入り口の石
2)八丁松原
  京都と西国諸国をつなぐ西国街道(山崎道)から城下に至る道筋には、八丁松原と呼ばれる松並木が族いていました。慶安2年(1649)、高槻城主永井直清によって整備されました。
★よくある質問
Q:「八丁は今でいうと、距離はどのくらいですか」

A:「900m」
当時は松が800本程度有ったようです。現在も50本(58本)残っています。
3)東大手門跡
   東側大手門は、城の表玄関で、最も重要なものでした。ほかに南門(「南御門」)、北門(「北御門」)また高槻城西側の門は、「不明門」(あかずのもん)と呼ばれる非常用の門が有りました。
藩主の参勤交代や他藩からの使者などは、すべてこの東大手門を利用しました。
★よくある質問
Q:「大手門跡のとなりの家は、武家屋敷みたいな外観で注連縄がついていますが、どうしてですか」

A:「武家屋敷では有りません、昔は堀の部分です。野見神社の宮司さんの自宅です。」
4)菁莪堂(せいがどう)跡
  高槻藩による藩士教育のための学校です。九代藩主永井直進(なおのぶ)によって寛政期(1970年代)に三の丸の一角に設立されました。8才から18才までの子弟がが古典や漢詩、書などを学びました。
★よくある質問
Q「菁莪堂跡はどこですか」

A:「第1中学校敷地内」
5)藤井竹外邸跡
  藤井竹外(1807〜1866)は、本名を啓(または啓二郎)、字(あざな)は士開といい、幕末の激動期を生きた中堅クラスの高槻藩士です。
城内三の丸にあった役宅で生まれました。幼少から武士の弟子として厳格に育てられ、藩校・菁莪堂で学ぶかたわら、鉄砲術など「文武両道」に努めます。19才で藩の小姓として鶴の間に出勤。藩では三度の江戸勤番に就くなどしましたが、文久元年(1861)55歳で、藩に隠居願いを出し、上洛。漢詩つくりに没頭するも、慶応2年(1866)7月21日に60歳で亡くなりました。
昭和52年(1977)、生誕170年を記念して建てられた詩碑。
★よくある質問
Q:「詩碑に刻まれた漢詩は何ですか、どんな意味ですか」

A:「竹外28字詩後編の最初に出てくる漢詩”花朝下澱江”」
6)本行寺と藤井竹外の墓
   本行寺は、日蓮宗の寺院です。慶安4年(1651)、高槻藩主高槻藩主永井直清によって本堂は改築されています。また、本堂にある「唱導殿」の額は、11代藩主直輝の兄直寛の筆によるものです。
境内墓地には藤井竹外の墓があります。
★よくある質問
Q1:「竹外の墓は、乾性寺にもあると聞きますが、どうゆうことですか」

A1:「墓は、本行寺・乾性寺・長楽寺(京都)にあります、彼は生前墓は高いところを希望、先生の近くでとのことから墓が設けられたとのこと」
Q2:「本行寺にお相撲さんの墓があると聞きますが、ご存知ですか」
A2:「草相撲が盛んなころ、瀧の音岩五郎(明治38)の力士の墓があります」
Q3:「本行事の南側の歩道にある黄色い石は、何ですか」
A3:「思案石・・・領民が堀を見て思案したと言われています。」
7)野見神社・永井神社
   野見神社は、高槻城の鎮守社として三の丸に位置し、祭神は牛頭天王(京都八坂神社も同じ・・・疫病の神様)
 境内にある永井神社は、初代藩主の永井直清を祀ったもので、寛政5年(1793)、9代藩主直進によって建設され、「直清権現」と呼ばれていました。かっての高槻城の姿をしのばせる絵馬が旧藩士から奉納されています。
★よくある質問
Q:「永井神社の門などに彫られている高槻藩主の家紋は、何ですか」

A:「一文字三つ星は藩の家紋、永井鉄線は、永井家の家紋で用途によって使い分けていたようです。」
8)高山右近天主教会堂跡
  キリシタン大名として有名な高山右近は、天正元年(1573)、21歳の若さで高槻城主なります。天主教会堂は天正2年(1574)、現在の野見神社のあたりに、右近の父・飛騨守が建てたものです。ルイスフロイスの記録によると、大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、池のある美しい庭園の一角に大きな十字架が建てられていたといいます。
★よくある質問
Q:「高山右近の銅像は、どこですか。」

A:「城跡公園の銅像は、市民会館から移設された。同型のものはフイリッピン・石川県にもあります。市民会館の近くの教会に大理石のものがあります」
9)工兵第四連隊正門跡
   明治7年(1874)、高槻城の石垣石は、京阪間鉄道敷設の石材需要のため、工務省へ譲渡されることになり、高槻城は破却されました。跡地は一時、明治42年(1909)、陸軍第四連隊の兵営が設置され、本丸跡には連隊場がおかれました。
★よくある質問
Q:「兵舎は、いつまで存在していたのですか」

A:「昭和20年1,825人いた記録があります」
10)城跡公園
   城跡公園は、旧高槻城の中心部に位置する約4.4haの都市公園です。昭和56年から3年計画で公園整備に着手。堀や石垣を模した約1,000uの池と石積のほか、人工の小滝、せせらぎ、小橋、あずまや、石敷きの散策路などが完成し、しだれ桜や松、梅など5千本の植栽も施されて、現在の城跡公園に生まれ変わりました。
地下に埋設されている非常用貯水槽は、災害時の飲料水や消防用の水として使用できる応急施設です。口径2.6m、長さ19.3m、貯水量100立方メートルで、1日の3万人の飲料水を確保しています。

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