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5月 活動報告
高槻ボランティアガイド研修
第4回講座

「高槻城跡界隈」(その3/4)

3.外国人から見た「高槻城」
1)宣教師の記録 ルイス・フロイス(天正4年)など
  「城内に多数の住民あり、三階級の人すなわち武士・兵士、及び付近に水田を有する農民及び職工移住せる」「水の充ちたる広大なる濠と周囲の城壁」
注:
 1)和田惟政時代の城館から大きく拡張され、外堀を掘って町屋を城内に取りこんだ様子。
 2)しろあと歴史館建設に先立つ発掘調査で、幅24m、深さ4mに及ぶ中世の大濠が発見。

2)オランダ商館医師ケンペルの記録
 「平野の遠方遠くに、まるで水中にあるように美しく輝いて見えた」
注:
 芥川の扇状地を利用した平城 2重の堀

4.江戸時代の高槻城
1)城の大きさ
   東西約510m*南北約630mの範囲にひろがり、平面形は南北に長い凸字形をしています。
内堀を囲む本丸・二重丸を中心に、三の丸や出丸、厩郢郭、弁財天天郭などが配置され、外堀がめぐっていました。
2)城の特長
  三層の天守閣、平城、土塁と一部の石垣。
3)城下町
  城の北側と東側に発達。
 「高槻十一町」 通りや路地は、江戸時代の姿を今に伝えています。
 馬場・本町・新本町・八幡町・川之町・新川之町・魚屋町・横町・土橋町・高西町・紺屋町
4)高槻六口
   北の芥川口と京口、東の前島口、南の大塚口、大坂口、富田口という六つの「口」を通じて、西国街道と淀川を結んでいました。
 芥川口から京口にかけて配置された足軽永屋や寺院、城門を囲むように並ぶ武家屋敷などに、城の防御を兼ねた町並みが見てとれます。
5)寺町
   理安寺・光松寺・本行寺・円城寺・是三寺などの寺院がありました。このうち、高槻城の北東部に位置する理安寺・光松寺・本行寺の一体は、「寺町筋」「寺之前町」などと呼ばれる寺町が形成し、今も当時の様子を伝えています。
6)人口
   18世紀前半頃の城下町の人口は、総勢4,600人(高槻市史第2巻)、
武家(家老級から足軽級まで)約2,200人、町方約2,400人。

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