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5月 活動報告
高槻ボランティアガイド研修
第4回講座

「高槻城跡界隈」(その1/4)

主  催 :(財)高槻市観光協会
開 催 日:平成17年5月10日 10:00〜12:00
場   所:高槻商工会議所 会議室
講   師:高槻市しろあと歴史館 学芸員 西本幸嗣さん
 高槻城は、府立槻の木高等学校(旧府立島上高等学校)城跡公園を中心に、城内、野見、大手、出丸各町に広がっていました。
 和田氏、高山氏、永井氏・・・歴代城主によって、時にはその名を天下にとどろかせた高槻城も時代の流れの中に消え、歴史上に名を残すのみとなりました。
 今はわずかな石垣と石碑だけが、「城下町高槻」の名残りを伝えています。

1.はじめに 〜城と城下町を訪ねる〜
   高槻城は、10世紀の末、近藤阿刀連忠範が「久米路山」と呼ばれる小丘を根拠地としたことにはじまると伝えられています。
 この地は西国街道と淀川を押さえる要所にあたり、早くから城砦が築かれていたようですが、歴史の表舞台に登場するのは16世紀後半、織田信長が摂津東半を支配下に治めてからです。
信長の部将・和田惟政や高山右近が城主をつとめ、領地の経営と城の経営と城の拡張整備を進めました。
その後、高槻は豊臣秀吉や徳川氏の直轄領となり、豊臣氏滅亡後は徳川幕府の西国経営の重要拠点として城の大修理が行われ、三層の天守ををもち、高石垣と土塁がめぐる近世城郭に生まれ変わりました。以後明治初期に廃城となるまで、高槻城は北摂唯一の城郭として威容を誇ったのです。

江戸時代の城下町を歩く時のポイント
下記事項を事前に調べて城及び城下町を見学するとよいでしょう。
1)城の縄張り(城の構築プラン:城の構図)
     @現在の地図
     A城の絵図
2)石垣(有るか・ないか)・堀
3)門・・・道筋
4)道しるべ・・・道標
5)町割(地形との関係)

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