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3月 活動報告
高槻ボランティアガイド研修
第3回講座
「摂津富田・・・寺と酒蔵の町の歴史」
主 催 :(財)高槻市観光協会
開 催 日:平成17年4月14日 10:00〜12:00
場 所:高槻商工会議所 会議室
講 師:塚本紀雄さん
富田は、戦国時代一向宗(浄土真宗)の北摂布教の拠点となった教行寺がある。
戦国時代の富田はこの教行寺を中心とした真宗寺院の境内地すなわち寺内町であった。
また、富田は、「富田の酒づくり」としても有名である。この古い町並みの中に現在も息づいており、筒井池(紅屋池)をはさんでの酒蔵と本照寺などはその典型である。
塚本紀雄さんの講義内容に私の意見を加えています。
1.富田の地名の由来
古墳時代(6C中頃)末期にこの地に皇室御料の屯田が営まれていたことに由来しているとも言われる。
台地に水を引いてくる必要があり、安威川より水を引いてきたのが五社水路です。
低湿地に排水溝を掘って水田をつくるよりはるかに収穫が良かった。それ以来、優良米の産地として知られた。
2.富田の町の地形
奈佐原丘陵の南端から南方に突出している標高10〜30mの舌状台地で、芥川と安威川に挟まれた低位段丘である。
古くは藍野とも呼ばれた北西端に総持寺、南東端には富田の古い町並みをのせている。
3.富田の町の形成
富田が都市的集落への歩みを開始したのは城下町高槻より古く、戦国時代はじめの文明8年頃(1476)に建設された一向宗の富田道場(後の教行寺)を核として形成された寺内町にさかのぼるといわれている。
天文元年(1532)後の管領細川清元の兵により富田道場をはじめ寺内町はことごとく焼きはらわれた。しかし5年後には道場は再建され町も復興した。
その後、寺内町の筒井池を挟んで東北部に家が建ち並び、町域を拡げ酒造家、質屋、菓子屋、小間物屋、そして風呂屋等々の店が並んでいた。文禄3年(1594)の検知帳から商工業、サービス業に携わっている軒数は富田60,茨木60,高槻32でその盛況ぶりがうかがえる。中でも酒造業は良質の米と阿武山山系の清水に恵まれ、最盛期の江戸中期には29件を数えた。江戸時代の町の規模は筒井池を挟んで約500軒、2000人が暮らしていました。
また、酒造業の富みにより豊かな町衆文化が開花した。ことに茶道は「加賀金沢」「尾張名古屋」「摂津富田」と並び称されたという。酒造家からは漢詩人・入江若水(紅屋)や書の藤田友閑(大門字屋)などの多くの文人を排出している。
4.教行寺と蓮如上人
教行寺は浄土真宗中興の本願寺第八代蓮如上人により文明8年(1476)頃に創建されたと言われる。
蓮如の生涯は次の通り。背景には下克上、一揆、飢餓の時代があった。
応永22(1415)本願寺第七代(20才)の長子として誕生。ただし母は父の女中
応永27(1420)父が正妻を迎えたため、母は何処ともなく姿を消す。6才
長禄元(1457)父在如が没する。正妻の子応玄を退け、本願寺第八代を継ぐ。43才
文明3(1471)延暦寺の攻撃激しく、また北陸教化、進出のため越前吉崎へ移る。
文明7(1475)吉崎の教団組織の乱れを憂い、退出し摂津富田に一ケ月在住し、枚方の出口に坊舎(後の光善寺)を建立、その翌年頃に教行寺を建立する。
文明11(1479)山科に本拠地として本願寺の建立始まる。65才
延徳元(1489)本願寺法主を五男実如に譲り、山科本願寺南殿に隠居す。75才
明応5(1496)大阪御坊(石山本願寺)起工す。82才
明応7(1498)第27子実従生まれる。その生涯5人の妻に13男14女をもうける.
明応8(1499)本願寺にて入没。生涯に教化のため御文約20通を書く。85才
5.普門寺と管領細川春元
境内には細川春元の墓と伝えられる宝篋印塔がある。
清元は四国阿波の細川宗家の子。1527年三好元長らに擁されて和泉の堺に着き、京都でその勢力を伸ばした。三好元長の強大化を恐れた清元は元長を自害させ、1536年管領に就任した。1549年元長の子、三好長慶に追われて近江に逃れたが、1561年長慶と和して摂津普門寺に隠棲し富田荘を与えられた。49才で没。
6.普門寺と14代将軍足利義栄(1538〜1568)
1568年勅使が普門寺に下向して、足利義栄の将軍宣下の式が挙げられた。
1565年将軍足利義輝が松永久秀らに殺された翌年、三好三人衆に擁立され阿波から摂津富田に移り、1567年将軍宣下を請うたが許されず、翌年ようやく将軍に任ぜられた。
しかし同年織田信長に擁せられて入京した足利義昭(後の15代将軍)と対決しようとしていた矢先に没した。
6.普門寺と隠元禅師
隠元は1654年に明(中国)から来朝し、宇治の万福寺に移るまで約6年間普門寺に滞在した。隠元の生涯は次の通り。
1592年明国福建省に生まれる。日本では文禄の役で朝鮮出兵を開始する。
1620年黄檗山万福寺(古黄檗)にて出家。当時の万福寺は荒廃していた。29才
1637年古黄檗の住持となる。伽藍の整備と共に経済的基盤をも確立する。46才
1651年隠元の法嗣也懶が長崎崇福寺の住持に請われ東渡中に溺没す。
1654年厦門を出航し長崎に着岸、興福寺に入る。随従者総数約30人。63才
1655年普門寺住持の竜渓らに請ぜられて摂津普門寺に入る。多くの僧衆集まる。
1658年竜渓に伴われ江戸へ行き、将軍家綱に謁見。3年間滞在を延期す。67才
1659年大老酒井忠勝の「寺地を授ける」との勧めもあり、日本に滞留を決意っする。
16661年宇治の黄檗山万福寺完成し、住持して入る。70才
1664年普門寺の竜渓に日本僧として初めて付法する。木庵に継がせ隠居す。73才
1668年万福寺の伽藍整備成る。77才
1673年後水尾法皇より「大光普照国師」号を授かる。4月3日示寂。82才
隠元は日本滞在中に宗教上はもとより、文化面においても多大の影響を日本に与えた。隠元のもたらした文物は当時の中国文化の最先端であり、大きな期待を持って迎えられ、また高く評価された。隠元豆、煎茶、普茶料理、そして書画(黄檗物)の普及。ハリボテの達磨の製法、「花まつり」に甘茶を誕生仏に注ぐことの紹介。禅寺でお経を読むとき、木魚を叩いて調子をとること等々である。