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3月 活動報告
高槻ボランティアガイド研修
第2回ガイド実地研修

「上宮天満宮と古曽部界隈探索」
(その4/4)

←伊勢寺の本殿前
平安時代の三十六歌仙の一人で、宇多天皇に愛され御息所にまでなった伊勢姫(877?〜939?年)が、天皇の没後、草庵を造り隠棲したのがこの地であり、伊勢姫の死後、「伊勢寺」の名で寺が創始されたといわれている。当初の宗派は天台宗だったようである。

→ 日吉神社
本殿 一間社流造 正面軒唐破風付 檜皮葺
創建年代は詳かでないが、天正元年(1573)、社殿は慶長19年(1614)に再建された。  

→不老水
平安時代の著名な歌人で、三十六歌仙の一人である能因法師は、晩年この地に住みつき、活動の拠点としていたといわれている。

 能因法師は日常生活に必要な水としては「花の井」(別ページに記載)から得ていたようであるが、老いを知った能因法師は、不老不死を願い、特に煎茶に用いる水を汲んだのがこの井戸、「不老水」(右の写真)であったとされている。
 

↓能因法師の墓
 ここに能因法師の墓が造られたのは、彼が晩年この地を拠点として歌作活動をしていたことによると考えられている。
 能因法師は、何故、この地に住むようになったのかは定かではないが、その昔、この地に住んでいた「伊勢姫」の歌人としての作風に心をひかれたのではないか、という説が強い。
 下の写真は能因法師墳の正面である。右側に見える縦長の石碑は、かつての高槻藩主永井直清によって慶安3年(1650年)に建てられ、能因法師の業績が記されているという。
 

←8世紀末(寛政初)五十嵐新平が古曽部で開いた登り窯。
幕末から明治時代まで続いたが4代目信平で廃跡された。
古曽部焼は日用雑貨がほとんどであったが茶器は地元の人に愛されていた。
作風は荒々しく力強い初代・民芸的な二代目など、ひなびた味わいがある。