わがまち紹介
目次へ|戻る次へ
令和5年5月 わがまち紹介
戦国最初の天下人の城があった
三好山の芥川城跡
史跡見学と散策【報告】
その3/3(疑問を解明)
 5月18日、史跡芥川城跡に「三好芥川城の会」の方3名に案内して頂き見学・散策に行ってきました。
二つの疑問点があり、解明したいと思い「高槻市文化財課」に問い合わせし、回答を得ましたので公開します。
ひとつめ
 史跡芥川城跡は、山城で細い山道を登ります。途中の古井戸までは狭い山道です。この古井戸から絶景が見える休憩スポット、更に山頂への道は狭くて急な登山道です。
「武士は、細くて狭い急な山道の上り下りは出来るとしても、お姫さん達はどの様にして、お城迄の行き来をしたのだろうかと疑問を持ちました」
解答
山城なので基本的には徒歩で登城し、上級者(お姫さん含む)であれば可能なところは駕籠や輿、あるいは馬に乗ったと考えられます。
おそらく毎日上り下りをしていたわけではなく、不便ながら山上で生活していました。
山道に使用した
山駕籠
写真:東京都立博物館・美術館収蔵品より

ふたつめ
 VG槻輪は、平成18年12月、わがまち紹介活動で高槻西国街道を散策し芥川町を訪問しました。
「高槻市殿町8に芥川城跡地があります。
芥川城跡地の碑
西国街道芥川宿の北側
「この三好山の史跡芥川城跡と殿町の芥川城跡の二つの城跡があります。
この二つの城は実質どのような使い方をされていたか」知りたい。

解答
 殿町の芥川城跡ですが、かつて芥川に所在する「殿ノ内」という地名から三好長慶らの城はここにあったと考えられていました。
一方で、三好山の芥川山城(のちの史跡芥川城跡)の調査研究が進む中で、平時は殿町(平城)、戦時は三好山(山城)を使ったというような想定もありました。
近年の国史跡指定に先立つ総合調査の結果、文献史料に記される「芥川城跡」が、西国街道の芥川宿に隣接する殿町ではなく三好山であることが明らかになりました。
戦国時代の史料には天神馬 場から芥川城までが一〜二里(約4〜8q)と記されており、殿町ではないことが明らかです。
また、殿町の芥川城跡に関する記載も江戸時代の後半までしか遡らないことが確認できました。
このことから、殿町の芥川城跡地は三好長慶とはほぼ関係がないと考えられます。
ただし、殿町周辺に地名を冠する芥川氏のなんらかの施設があった可能性は否定できません。
それでもその施設は当時の史料上に頻出する芥川城跡とは別のものであったと言うことになります。
このページの先頭へ戻る