わがまち紹介
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令和5年5月 わがまち紹介
戦国最初の天下人の城があった
三好山の芥川城跡
史跡見学と散策【報告】
その1/3(概要)
月  日 2023年5月18日(木曜日)
集合場所 高槻市上ノ口バス停 集合
訪問先 三好山の芥川城跡見学

 5月18日、青葉若葉を吹きわたる爽やかな「薫風」の中を三好山の芥川城に「三好芥川城の会」の副代表長谷川昇さんが、その個々の現場で丁寧に説明して頂き、副代表板東さんと小倉さんが我々を個々に支援して頂きました。
 JR高槻駅前から市営バス停上ノ口で集合し、出発前に全員に説明を行い、「三好芥川城の会」の長谷川さんの先導で出発しました。
 下の口の芥川山城入口の看板前で、登山のルート説明を受けながら山道をスタートしました。
芥川山城を入口の説明板
 上ノ口ルートは、わりに整備された自然道ですが、右手は摂津峡を流れる芥川が岸壁の下に見えました。
 良きお城の自然の城壁です。
この狭い山道を我々会員の歩調状況を見ながらゆっくりと登って行って下さいました。
途中へ休憩
 約30分程度進んだ古井戸の近くの広場で少し休息し絶景が味わえる広場まで「三好芥川城の会」の板東さんや小倉さん達の励ましの言葉を頂き、全員山頂まで登り切りました。
 山頂の芥川城跡では、「AR芥川城」の画面を見ながら当時の城の状況を理解することが出来ました。
 本当に有難う御座いました。
芥川城跡
 芥川城跡は三好山の山頂にあります。
 文部科学省は、文化財保護法に基づき、芥川城跡を史跡に指定した旨を令和4年11月10日に告示し、正式に国の史跡になりました。
 史跡とは、日本の歴史上重要な遺跡を文化財として保護していくために、国が指定するものです。
高槻市内では平成23年の安満遺跡追加指定以降、7カ所6件目の国史跡の誕生です。
 芥川城跡は、戦国時代の政治を知る上で貴重な遺跡です。
 芥川城跡は、畿内周辺を支配した戦国武将・三好長慶の本拠である城跡で、織田信長政権直前の戦国時代の政治・軍事を知る上で貴重な遺跡です。
史跡指定につながったポイント 芥川城跡のここがすごい!
■東西約500メートル、南北約400メートルで3つの曲輪群からなる山城跡は摂津国(現在の府北中部と兵庫県南東部)最大規模
〇解説:
摂津峡に囲まれた標高182mの三好山の山全体に曲輪や堀切、石垣などの遺構が広がっています。
竪土塁、大土塁・堀切、囲郭土塁など、特徴的な遺構が山頂付近だけでなく城域の各所に分布しており、摂津国だけでなく大阪府下でも最大級の規模を誇ります。
■戦国時代の大規模な山城遺構が良好に残り築城から廃城までの変遷が分かる 〇解説:
後世に破壊されるなどの影響が少ない状態で城郭の遺構が良く残り、発掘調査でも礎石建物や?(せん)列建物などの建物遺構が地中から多く見つかっています。
また、芥川城は多数の文献史料に登場しており、築城が永正13年(1516)までに完成を迎え、廃城が永禄12年(1569)以降とみられるなど、他の城に比べて記録が明瞭であることも大きな特徴です。
■織田信長登場以前の、畿内の築城技術の高さ(石垣、瓦、縄張り)が分かる 〇解説:
現在に残る芥川城はその多くの遺構が、三好氏時代のものと考えられます。
戦国時代の城の多くが土造りであることに比べて、芥川城では織田信長以降の「織豊系城郭」に採用された石垣や瓦、発達した小口などの縄張りが先駆的に採用されています。
信長以前に畿内でこれらの要素がすでに採用されており、それらを信長が採用して近世城郭の礎になったと考えられます。
■芥川城が政庁機能を持ち、畿内の政治の舞台が一時期、京都から芥川城へ移ったことを示す 〇解説:
豊富な文献史料からは、当時の権力者だった細川晴元や三好長慶が京都に居らずに芥川城で政務を執っていたことが明らかです。
研究者によっては「芥川政権」とも呼ぶ、畿内近国の政治の中心が芥川城にありました。
芥川城にかかわる文献史料の多さは、それだけ当時の人々が芥川城の様子を注視していた証でもあります。

※〇解説は、高槻市街にぎわい部文化財課に文化財指定の内容を文書で回答をお願いし得た情報です。
下の図は、「芥川山城跡縄張り図」です。
芥川山城跡縄張り図
下の図は、「芥川山城跡想像鳥瞰図」です。
芥川山城跡想像鳥瞰図
芥川山城跡パンフレットより
■堀 切
堀切
この堀切は向かって左側が人の背丈を超える土塁になっており、より堀切を深くし、敵の侵入を防ごうとする工夫がなされています。
芥川山城では要所で堀切が確認され、堅い守りを実現していたこと標高182.69mの三好山を中心とする城跡がわかります。
■石 垣
石垣
大手の谷筋に築かれた石垣です。
大振りの自然石と粗割石を用い、間に小石を詰めて目地 が通るように積まれています。
中央が崩れていますが、本来は幅12mの谷筋を塞いでいま した。
現在も2m以上の高さが残ります。
■建物の跡
建物の跡
平成5年の主郭(本丸)の発掘調査では建物の柱を支える多くの基礎石が見つかり、本格的な御殿建築だったと推定されています。
令和2年の調査では、一段下の曲輪で櫓の可能性を持つ?(せん)列建物が確認されました。
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