わがまち紹介
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令和4年11月 わがまち紹介
大きな屋敷を構える家屋が残っている"岸部"
旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館)訪問
報告概要:1/3
月  日 2022年11月17日(木曜日)
集合場所 JR岸辺駅改札口  集合
訪問先 岸部散策・旧中西家住宅訪問見学
JR岸部駅
 11月17日は晩秋の好天に恵まれ、定刻にJR岸辺駅に集合しました。
岸部
 JR岸辺駅の改札の外に駅周辺の地図が掲示されています。
 「きしべ」の漢字に、JR駅名は、「岸辺駅」で、所在地名は「南岸部1丁目」です。
神社などの「吉志部」と3つの使い方を使い分けられていています。
 「岸辺」「岸部」「吉志部」の違いとそれぞれの由来
 この地域は、朝鮮からの渡来人、吉師(吉士)が住んでいたことから、古来より「吉師部の里」と称されていました。
この吉師が釈迦が池の大蛇を退治し、その偉大な志を人々が称えたという伝説から、吉師の師を志と改め、「吉志部」となったと伝えられています。
「吉志」が「岸」となったのは、明治の町村制施行で、吉志部村、南村、東村、七尾村、小路村の五ヶ村が合併し、「岸部村」とした折です。
その後、昭和の吹田市制施行にあたり、大字として「岸部」の名が残りました。
 「岸辺」の由来は国鉄の駅名によるものです。
昭和22年(1947年)の新駅設置の際、岸部村の素封家・中西鉄蔵氏が「岸辺」駅と命名しました。
なぜ「岸部」でなく「岸辺」としたかについては、
1)「岸部」を「キシブ」と読む乗客もあるから「岸辺」の字をあてた。
2)この辺りが古代浪華の海辺にあたることからという説があるそうです。

岸部のまち並み
大きな茅葺の屋根
 JR岸辺駅改札から、駅の陸橋の北口(吹田市民病院)への連絡通路を渡りエレベータで地上に出ました。
国立循環器病研究センターの北側に回り岸辺の街に入って行きます。
 岸部は、古くからの農村集落の様相がよく残り、茅葺き屋根に覆い懸けをした民家が散見できます。
 相対的に大きな門構えの家屋が多くあります。
中には長屋門を構えた旧中西家のような巨大な屋敷構えの家屋も散見できます。
 古くからの農村集落だから、集落内の道は細く、直角に曲がった所も多く、軽自動車がやっと通れる程度の道ばかりです。
大光寺
 当寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を「東朝山」、寺号を「大光寺」といいます。
天文8年(1539年)、吉志部東村の秀永が本願寺第十代証如上人の直弟子となって道場を開いたことに始まります。
大光寺の前の細い道を旧中西家へ向かいました。

旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館)
勝手門の前で館長の話を聞く
 旧中西家住宅は、国登録有形文化財・吹田市指定有形文化財・国登録記念物(庭園)  旧中西家に着いてから、表門の外観を見て、勝手門前に集合しました。
 勝手門の前で、旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館)の松本館長より、 「中西家は、旧中西家住宅の文化財を吹田市のために役立てたいと、今まで住んで居られた中西家の住宅をメンテナンスをして、家具・調度品を含め、吹田市に寄贈して頂いた」などの概要を説明して戴きました。
 その後、2班に分かれ、各々に多くのガイドさんがついて案内して頂きました。
 江戸時代の学者で漢詩人でもあった廣瀬旭莊が「其宅華麗殆類侯居(華麗で、諸侯が住まう家のようだ)」 と讃えた旧中西家住宅は、文化財を吹田市のために役立てたいという中西家の御厚志により、平成19 (2007)年1月22日に家具や調度品とともに、吹田市に寄贈されたものです。
 旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館)は、文化人をあたたかく迎えてきた中西家代々のこころと培われた豊かな歴史や文化を伝承するとともに、大切なお客さまをお迎えするこころをもって、皆様に歴史と伝統を堪能していただくことを目的に設けられました。
 重厚な屋敷構えや建築物、華麗な庭園や家具調度は歴史と伝統の深さを窺わせ、美しく整えられた空間からは快適に住み続けることが文化を伝承していくことに繋がるということを示しています。
庭園で記念写真
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