令和4年10月 わがまち紹介 富田の"高槻まちかど遺産"を たどって"富田"を知ろう!! 富田の"高槻まちかど遺産"をめぐる 報告 |
月 日 | 2022年10月13日(木曜日) | ||
集合場所 | 小寺池図書館前 集合 | 訪問先 | 富田の"高槻まちかど遺産" |
定刻前に、全員「小寺池図書館」前に集合しました。 参加者全員に「"わがまち紹介" 富田の"高槻まちかで遺産"をたどって"富田"を知ろう!!ガイドブック」と「散策マップ」が配布し、散策の概要の説明が有りました。 初めて富田を訪問し、「高槻まちかで遺産」の標識を始めて見て読んでも、理解できるとは思われません。 それは、小さな表示板に歴史的重要な事項が濃縮されて表示されているのです。 富田の先輩達は、「一口で富田は語れない」とよく言われます。 富田は、様々な特徴を持った集落が集まって構成されているのです。 郷土史家(天坊幸彦氏)は、富田史談の中で、西富田地区は富田村の根本中心であると書き残しています。 縄文時代、弥生時代も一般的に集落は、台地上に立地していたといわれる。 それより相当以前に富田台地の粘土の中から、ナイフやヤリ先の石の道具が出ています。 富田が文字として現れるのは、「日本書記」の6世紀中頃にできた「竹村:たかふ」として登場する。 「竹村」は丘陵台地の富田台地であるようです。 「竹村」は太田、宮田、高田などを含む広い範囲で富田はその中心的役割を果たしていた。 後に皇室御領の「屯倉(みやけ)」から屯田、富んだ田と力「富田」と呼ばれたと思われます。 その根本中心が西富田です。 富田のまち 現在、富田はJR摂津富田や阪急富田の駅周辺を核として発展をつづけています。 かつての富田の町並みは、駅の南方にある筒井池を中心に広がっていました。 しかし、その大半は埋め立てられてしまいました。 もとは、本照寺のすぐそばまで池が広がっており、昭和40年代までは、右の写真のように、池に映る美しい寺の姿を見ることができました。 江戸時代には、筒井池の南北に連なる大きな村でした。 江戸時代の絵図には、南西部に大きく筒井池が描かれ、北東に旧東岡宿、東側には紅屋、南側に教行寺、西側には普門寺、本照寺といった寺院が建ち並んでいる様子が描かれています。 今もその多くが当時の姿をとどめており、富田の歴史的景観をかたちづくっています。 富田の地形 富田地区は、高槻市内唯一の台地であり、伏流水があり酒造りに使われています。 富田は、高槻城(平城)よりもむしろ要塞の地であったことや、富田が川筋から離れた台地の為に水害や地震に、高槻城付近よりも地盤が強い等の理由により古い街並みが残ったのではないかと思われます。 富田を散策していると、敷地にゆとりがあり、手入れが行き届いた豊かな植栽・板塀のある家屋数多く見られます。 このような事から、富田の"まち"を楽しい散策ルートが幾通りもあります。 富田の酒 摂津の国、富田郷。 富田の地名はかつてこの地で皇室御料の屯田が営まれていたことに由来します。 優良米の産地で育成された良質の酒米と、石灰層を通って湧き出る阿武山々系の清水で醸し上げられたのが富田酒です。 高槻まちかど遺産 "高槻 まちかど遺産"は、高槻市全域で現在111ケ所に説明板を設置しています。 特に富田の狭い範囲に、現在21ヶ所設置されています。 しかも"高槻 まちかど遺産"の説明板は小さい中に非常に濃縮して記載されていて、味わい深い説明板です。 富田の"まちの歴史"をこれらの史跡をたどり、変わりゆく富田を散策しましょう!! |