わがまち紹介
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令和4年7月 わがまち紹介
弥生時代の生活や対外交流の様子を知り
日本文化の源流が学べる
大阪府立弥生文化博物館見学
報告

月  日 2022年7月14日(木曜日)
集合場所 信太山駅(JR阪和線) 改札口 集合
訪問先 大阪府立弥生文化博物館・史蹟池上曽根遺跡
道路のマンホールの蓋
 7月14日、天気予報では小雨模様でしたが、XG槻輪の参加者が良いので、どんよりした天気でしたが雨には逢いませんでした。
 信太山と言っても「陸上自衛隊 信太山駐屯地」か「池上曽根遺跡」の名前しか知らない方もいると思います。
 朝JR信太山駅(しのだやまえき)改札出口に全員集合し、駅の西にある踏切を渡ると茶色い舗装道路があります。この茶色の舗装道路と道路のマンホールの蓋も池上曽根遺跡へのガイドになり、曲がりくねって約800m進むと国道26号にでます。
 この国道は大阪から和歌山への主な道路です。この国道の歩道の黄色の展示ブッロクウ沿いで南へ進むと「大阪府立弥生文化博物館」の建物が見えます。
大阪府立弥生文化博物館
学芸員の説明を聞く
 館では一括入館手続をし、手の消毒と検温しました。
各人には音声ガイド・イヤホンをお借りすることにしました。
まず、エントランスホールで、学芸員の飯村さんにフロアの展示内容等を説明して頂きました。
展示室の外側の廊下にもその時々に展示内容が変わって展示されていました。
 大阪府立弥生文化博物館は、平成3年、国指定史跡の環濠集落である池上曽根遺跡の地で開館した。
この博物館では、これまでに蓄積された弥生時代の文化的な遺産や情報をもとに弥生文化の歴史的な意義を理解し、ひいては日本文化全般について考える場となることを目指した、日本初の「弥生文化に関する 博物館」といえます。
 大阪府立弥生文化博物館は、弥生文化に関する資料と情報を収集・保存・研究・展示し、弥生文化に広く親しみ、学習出来るようになっています。
地元の遺跡にとどまらず、弥生文化全般を広く対象とする全国で唯一の博物館です。
展示室は、実物のほか、レプリカや模型、映像など多角的に活用し、わかりやすさをこころがけています。
 常設展示室は、日本の弥生文化をテーマごとに解説する「目で見る弥生文化」と池上曽根遺跡出土品を中心とした「池上曽根ワールド」で構成しています。これ以外に特別展、企画展を開催する特別展示室を設け、 さまざまな視点 で展示を行い、最新のデータを発信されています。
池上曽根遺跡
池上曽根史跡公園入口の門
 池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落です。広さは約60万平方メートルで、環濠の内側に、掘立柱建物群があり、中央には大型の掘立柱建物があります。
花粉などの自然遺物の分析により、アカガシなどの広葉樹の森や、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていたと思われます。
 後方には大阪湾がみえます。二千年前の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2キロメートル後方にまで迫っていました。
遺跡の東側を横切って走る大きな道路が、第二阪和国道(現26号線)です。
弥生時代にはその道路の手前と、遺跡の奥に河川がありました。
 手前の河川では堰が発見され、遺跡の北側には水田が拡がっていたと考えられます。ただし、池上曽根遺跡が最も栄えた「弥生時代中期後半」には河川の流れは止まっていたようです。この二本の河川にはさまれ、二条の環濠が、集落をとりまいています。
その外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があったようです。
池上曽根遺跡では、お墓は集落の外側に造る習慣があったのかもしれません。
また、環濠のまわりには竪穴住居が密集していました。竪穴住居には、一時期に「何棟存在」し、「何人の人」がいたのか人口をめぐる解釈は様々です。
 池上曽根遺跡は平野部に位置していますが、二千年前には河川などの影響もあり、今よりもっと起伏に富んだ地形をしていました。
 信太山丘陵からも2キロメートルと近く、海と川と山に挟まれた豊かな土地であったようです。

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