令和3年12月 わがまち紹介 閑静な住宅街と緑豊かな環境 箕面市 紅葉の箕面瀧道を散策しましょう!! 報告 |
月 日 | 2021年12月1日(水曜日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
集合場所 | 阪急箕面駅 改札出口 集合 | 訪問先 | 紅葉の箕面瀧道を散策 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最初に参加者の体調も聞きながら、「箕面瀧道散策ルート」の調整等を箕面観光ボランティアガイドさんと行いました。 箕面観光ボランティアガイドの梅田さんから、箕面観光ボランティアガイド編の「箕面滝道こぼればなし」(第1集&第2集)を再編成された「箕面瀧道コース」説明資料のデーターを頂きましたので、参加者全員にコピーして配布しました。 ※本報告は、これ等の資料を参考にしています。 箕面観光ボランティアガイド 梅田良一様、柳井利明様 山内千恵子様にガイドをして頂き、駅前から秋の紅葉を楽しみ、説明も聞き、様々な顔を魅せる中の坂(旧箕面街道)をゆっくりと聖天宮西江寺へ向かいました。
「中の坂」は、現在の滝道ができるまでは瀧安寺への唯一の参道となっており、また、神仏の住む所と俗界の境界のようです。 「中の坂」の下の四辻に道標がありますが、この道標には、江戸時代に勝尾寺で念仏を説いていた徳本上人が書いた六字名号(南無阿弥陀仏)が徳本文字(蔦文字)で彫られています。 また、道標に「すぐ大坂、右中山、左京」と記されていますが、この「すぐ」とは近いという意味ではなく、方角が真っ直ぐの方向という意味だそうです。 この向かいには「大井堰水路分水(四大字水利組合)の表示板があります。これは四大字(平尾、西小路、桜、牧落)が設置した大井堰の分水地で、昔は種籾を浸けておく場所として利用されたそうです。
「中の坂」を登って行くと、聖天宮西江寺があります。この寺は聖天宮と称する神社であるとともに、西江寺と称する寺でもあり、仏であると同時に神であるという神仏混淆の性格を備えており、高野山真言宗に属しています。
箕面山 聖天宮西江寺は、役行者によって658年飛鳥時代に建立された大聖歓喜天霊場の根本道場です。 そもそもですが、箕面山は古来より瀧を中心に山林の修行道場として発展してきた地で、日本で最も古い修行地の一つです。 役行者が箕面大瀧で苦行を重ねていたある日、山獄鳴動して光明が輝き光の中から老翁に化身した大聖歓喜天が現れ、この山を日本最初の歓喜天霊場とし、万民の諸願成就のため未来永劫ここに鎮座すると申されました。 聖天宮西江寺境内の「一行寺楓」
本堂には、役行者作日本最初の大聖歓喜天が祀られ1300年余の歴史があり、現在も地元の氏神として「聖天さん」と呼ばれ信仰を集めています。 大聖歓喜天は古代インドでは、知恵・幸運の神であるガーネーシャがもとで、日本へは金銀融通、縁結びの神として伝わりました。象頭人身の男女が抱き合う形をしており、夫婦和合・安産・子宝の神としての信仰もあります。 本堂の本尊を資料を見せて説明して頂きましたが、ガイドさんも本尊を見たことはないとの事でした。 大黒天(だいこくてん) 大黒天は、古代インドではマハーカーラという暗黒に住み死を司る神で、現在の福々しい姿とはずいぶんと異なるものでした。仏教が伝わった時に神道の国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合され、その後少しずつ変貌して古い時代には戦闘神、そして台所の神として信仰されていました。 西江寺に祀られる大黒天は室町時代中期の作と伝えられ、頭に鳥帽子を冠して左肩に大袋を背負い右手に打ち出の小槌を持つ姿で、日本ではめずらしい立像大黒天です。 阪急沿線「西国七福神」の一尊でもあります。
聖天宮西江寺の坂を下ると橋があります。これが「一の橋」です。箕面公園の入口にある橋で、初期の一の橋の橋柱(橋の名前を書いた石柱)が滝道で再利用されています。瀧安寺の鳥居の前、修業の古場、時雨の広場の三ヶ所で「名勝箕面山」と彫られています。裏に廻ってみると「いちのはし」と彫られています。 残りの1つは所在不明です。 通常は、阪急箕面駅前から箕面の滝へは、駅前から、箕面名物「もみじの天ぷら」などのお土産店・喫茶店や「ゆずるの足湯」などのある滝道を通り、国定公園の入り口である一の橋へ行きます。
明治31年(1898年)に公園地となったのは、滝道沿いの約85.4ヘクタールでした。大阪府営公園となってから、多くの茶店、土産物屋、料亭ができています。 大阪府の公園整備への意欲はかなり強く、大正2年(1913年)には、本多静六(慶応2年−昭和27年<1866年−1952年>)に依頼し、府営公園の整備方針をたてられました。この方針に沿って大正9年(1920年)には、滝前の広場を整理し、滝つぼを南に拡張し、その縁に岩を積み、水位を上げて、豪雨時の対策をしました。大正10年(1921年)には、現在の昆虫館のあたりを芝生の休憩所とし、箕面植物見本園を新設しています。
「箕面寺秘密縁起」によると、孝徳天皇の白雉元年(650年)、役行者が箕面の滝で修行中、龍樹菩薩より法を授けられ、滝の下で不動明王と弁財天の像を刻んで堂宇に安置したと伝えられ、古くは箕面寺と呼ばれた。本尊の弁財天は竹生島、江の島、宮島のものと共に日本四弁財天のひとつ。約400年前に「箕面の福富」を発行したことから、宝くじ発祥の寺としても知られる。当時は正月七日に、大きな富箱のなかにある札を僧侶が長い錐で突いて引き、当選者に護符を授与したようです。その様子は「摂津名所図絵」にも描かれている。山岳修験道の根本道場でもあり、7月には全国から山伏が集まって古式に乗っ取った大護摩供(おおごまく)が行われる。
毎年4月15日、7月7日、11月7日の年3回、阪急箕面駅前から瀧安寺にかけて山伏大行列が行なわれます。 これは、瀧安寺の彩灯大護摩供の前作法として復活した伝統神事です。 関西一円から集まった約100名の山伏姿の行者が阪急箕面駅前から瀧安寺までほら貝を吹きながら「山伏大行列」で練り歩く姿は圧巻です。
西暦658年、役行者が箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました。 行者尊は報恩感謝のもとに、自ら弁財天の像を作製し、滝の側に祭祀して箕面寺と称しました。 (後に瀧安寺と改称)以後、多くの修行者が入山し、山岳の道場として発展しつつ、最盛期には堂舎が八十余りも存在しました。 名高い宗教家に、奈良時代の行基を始め、空海(弘法大師)、聖宝(理源大師)、圓珍(智証大師)、鎌倉時代の法然、日蓮、そして蓮如の諸師達がいます。 しかし、明治以降は時勢の大変動によって当区域のみとなり、大阪府による森林公園の企画下のもと、堂跡には土産店や食堂が建ち並んで今日に至ります。 本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。 とにかく古めかしい雰囲気の境内です。 山門をくぐった先に観音堂と、本堂へ向かう鳥居があります。
山岳信仰の象徴「修験根本道場」の石碑と、これまた苔むした古い雰囲気の明神鳥居(ニの鳥居)。 お寺のホームページに山岳信仰の解説があります。興味深いので引用させていただきます。 山岳宗教と称します。日本民族固有の思想で、自然発生的に生じ、確固とした宗祖や聖典は存在しません。 我々、日常生活の中で、正しくない言動や考えをしがちですが、不運の原因となります。それで精霊のこもる山に入って祓い清め、健全な生活をおくろうとするものです。
その修験者が、いわゆる「山伏」です。
弁天堂:これが日本最古の弁天さまそして、階段の上。 本堂に向かう参道です。
日本最古の弁財天をお参りするにあたり、ここでちょっとうんちくを。 弁財天とは:ちょっとしたうんちく 七福神とは、恵比寿神を除く六神が海外からやってきた神様とされます。弁財天(弁才天も同じ)は、インドの女神サラスヴァティーがルーツとされています。 中国の五胡十六国時代にインド→ウイグル→中国へ伝えられ、奈良時代に日本にも入ってきました。 信仰の形も様々に変容していますが、水の神や、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神などとして語られることが多いようです。
二つ目の橋を渡ると正面に立っています。箕面公園の生みの親と言われ大正9年(1920年)まで府会議員、国会議員など務められました。明治31年(1898年)に大阪府が国から無償で払い下げを受け、大阪府立箕面公園が発足以降、権利争いの裁判などいろいろありましたが、大正時代に入り、大阪府が公園としての整備事業を進めてこられたのも、この方の尽力の賜物です。 この銅像は、昭和5年(1930年)に建立されたものですが、銅像の題字が当時の総理大臣浜口雄幸の筆であることも注目されます。 なお、像近くにある四角い竹の「四方竹」は有名です。 四方竹は、イネ科の植物で、「カクダケ」「シカクダケ」とも呼ばれ中国原産で、秋には10月ごろから冬にかけてタケノコがでますが、食用にもなるそうです。四方竹の収穫は掘るのではなく、ひざ下ぐらいの長さの四方竹をポキっと折って収穫します。春に旬を迎える竹の子とは大きく違い、細長くて綺麗な黄緑色をしています。天ぷらや煮物・炒め物、パスタの具にしても美味しい万能なタケノコだそうです。
箕面公園昆虫館は、素晴らしい森の中にある小さな昆虫館です。 かつて箕面の森は、東京の高尾、京都の貴船と並び「日本三大昆虫宝庫」と称され、多くの昆虫研究者が集い調査研究を行う場所として知られていました。 今でも昆虫館を出てほんの少し歩いてみるだけで、いろんな昆虫を見つけることができるでしょう。 ところで昆虫のすごいところは、"多様性"の一言に尽きます。昆虫は地球上に約100万種、まだ知られていないものを含めると500万種とも1000万種いるとも言われています。 昆虫は、我々の想像を超える興味深い形態や生態の多様性に満ち溢れています。 どれだけ調べても知らないこと、分からないことが出てきて、驚き・感心することばかりだそうです。 箕面の森で出会う虫たちにも、それぞれの形と生き方の多様性があります。その一端を間近に見ることができるのは、実はすごいことなのです。 箕面公園昆虫館では身近な昆虫だけでなく、見たこともない虫や綺麗な虫、かっこいい虫、変な虫など、いろいろな昆虫を展示しています。ここで見たこと、体験したことを誰かに話したくなる、そんな昆虫館だそうです。 平成29年6月、VG槻輪「わがまち紹介」活動で、伊丹市昆虫館を訪問し、学芸員の説明と話合いをしました。 箕面公園昆虫館では、特別展「むしのかたち・うごきのしくみ」も開催され多くの事を楽しく学びましょう。
滝道の丁度中間点に川側の柵に「←滝へ1.4km・駅へ1.4km→」の札があります。 この辺りの山側を仰ぎ見ますと野口英世像があります。 野口博士が15年にわたるアメリカ留学から一時帰国した際、 待ちわびていた母シカさんを連れて、大正4年(1914年)10月10日、大阪城を見物し、途中茶屋で一服した後、箕面に向かいました。 しかし母親のシカさんは足が遅いし、茶の湯の作法も知らないからと、一足先に料理旅館「琴の家」に到着しました。琴の家の女中は、この田舎者らしい老婆を今日の主賓である博士の母親とは気付かず、玄関脇の控え部屋に通しました。 やがて、一行が到着し、それと知った女将は平身低頭し、恐縮したといいます。 そのうち、料理が運ばれてくると、博士は自ら箸をとって料理を母の口に運び、人目をはばかることなく、懸命に母に給仕することに余念がありませんでした。その姿に周りの人々は心をうたれ、感動したそうです。その話を聞いて、心を打たれた女将の妹の「南川光枝」さんが自分の土地を処分し、また心ある方からも寄付を得て、琴の家に近い高台に博士の銅像を建てました。 昭和30年(1955年)11月のことになります。
「石子詰め」は罪人を生きながら穴に入れ、その上に小石を入れて埋め殺す刑罰で、中世、血を見ることを嫌った社寺で死刑として行われたようです。 奈良や高野山には実話が残っていますが、ここでは地名として残ってはいるものの、実際に龍安寺でも行われたのかどうかは、何の記録も残っておらず、定かではありません。 石子詰の刑と言えば、春日神社の鹿をあやまって殺傷した少年三作を石子詰の刑に処したと伝承される。元禄時代、近松門左衛門の浄瑠璃「十三鐘」は有名でですね。
岩の高さ約7.5m・幅7.3m、高さ7.03m・幅2.1mのものとの2つで成っています。 「伝説」:時は嵯峨天皇のころ、京の都へやって来た唐の役人が、何を見ても、どこへ案内しても、唐と比べ小馬鹿にした。 ある時、箕面の山で役行者が滝の上の龍穴に入って竜樹菩薩から法を受けた話をする と、滝など水遊びと侮ったが、龍穴は見たいといい、案内することになった。 ところが滝道を進んでいくと巨石が道をふさいでいる。 案内人は、その岩角をするりと通り抜けたが、唐人はうまく通れず岩に登ろうとしたが転げ落ちる。三度試みて、三度失敗し、遂にあきらめて引き返すことになった。 以前の滝道はもっと下にあったが、崩落によりふさがれてしまい、現在の滝道は修復工事で嵩上げされています。よくみると岩の下に昔の案内石柱の頭部が出ており、かなり嵩上げされたことがわかります。
かつて滝の付近に箕面寺があったころは、この付近に大きな山門があったことからこの名が付けられたそうです。 ここから滝までの右側の斜面には、人里しか生えない彼岸花が咲くのが見られますが、滝の近くにお寺があったころの名残りと思われます。
川幅が急に狭くなり、川底が深く緑色に染まった淵があります。 「釣鐘淵」といい、ここは昔、箕面寺(現龍安寺)に納める釣鐘を牛の背に乗せて、通りがかったところ、余りに急な道だったので、牛もろともに転げ落ち、牛も釣鐘も二度と浮上しなっかったといわ れています。 今も龍安寺に釣鐘や鐘楼がないのはこのためだという伝説があります。伝説の真偽はともかく,ここは一世代前の滝壺です。 箕面の滝は約20万年前に六甲変動といわれる地殻変動によって北摂山地が隆起した時に今の一の橋辺りで生まれ、その後次第に後退して現在に至りましたが、今の場所になる直前は、ここに滝があったと推定されています。
箕面川は箕面ダムが出来るまでしばしば洪水が起こって、川沿いの住宅を壊滅させたり、斜面を崩壊させたりする暴れ川でした。 昭和26年(1951年)7月11日、箕面川増水の連絡を受け、滝近くの茶店内にいる人を救助しようとして濁流に巻き込まれ、殉職しました。殉職した当時の箕面町警察署長の顕彰碑です。
察長の遺徳を偲び、その功績をたたえ、町民有志により昭和62年9月に建立された。 滝の手前の赤い橋です。標高(海抜)200mです。箕面駅前の標高が83mですので、駅前からの標高差約120mになります。 滝から滝の上に上がる坂を「千本坂」といい、ここから眺める紅葉を「一目千本」と呼んでいます。
箕面大滝は天下の名瀑と知られ、「日本の滝百選」に選定されている落差33mの大滝です。 その流れ落ちる滝の姿が、農具の「箕」に似ていることから、箕面大滝と呼ばれるようになり、地名の由来もここから来ていると説明して頂きました。 「日本の滝百選」にも選ばれています。 昭和47年(1972年)に滝の左岸が地滑りで大崩落し、現在の形になりましたが、それ以前の滝は日陰で、薄暗かったようです。滝の落差は33mです。 この大滝の上流には「瓔珞の滝」と「雄滝」があり、そのため大滝は「雌滝」とも呼ばれます。なお、瓔珞の滝は侵食が進んだため、現在はコンクリート堰に姿を変えています。 また大滝の左岸に、後藤夜半の句碑「瀧の上に水現れて落ちにけり」や滝の右側には、文政12年(1829年)10月、頼山陽が母を伴って訪れた時の漢詩の詩碑もありますのでご覧下さい。この詩碑は「孝養の碑」とも呼ばれ、昭和15年(1940年)12月、頼山陽の功績と親孝行の心を顕彰するために、箕面保勝会により建立されたものです。
|