令和3年10月 わがまち紹介 「次なる茨木へ」を合言葉に将来を見据えたまちづくり進む 茨木市 「川端康成文学館」見学の感想 |
「川端康成文学館」見学の感想 秋晴れの10月14日、VG槻輪の「わがまち紹介」活動で、川端康成文学館を訪問しました。 係員の方々に笑顔で迎えてもらいました。学芸担当・西村峰龍先生(名古屋大学非常勤講師)に川端氏の作家生活の生涯を年代順に丁寧に説明をして下さいました。
両親に早く死別し、母方に引き取られた姉も14歳くらいの若さで亡くなりました。 そのことで質問いたしました。 すると「結核か心臓マヒと聞いています」ということでした。戦後は、結核は不治の病でした。両親、姉を早くに失いました。 川端康成先生は、だから大庄屋の祖父母に、この茨木市宿久庄の地で育てられたのでした。 孤独ゆえに大の読書家となりました。
私は、読書家ではありません。でも展示や西村先生の説明を聞いているうちに、川端氏の作品で映画・テレビに放映された『伊豆の踊子・雪国・古都』など日本の四季のある自然やそのなかでくり広げられる人々の人情、生活、喜怒哀楽が頭にうかびました。 別の角度からこうお尋ねしました。「先生のご専門は川端文学の研究ですか、それとも文学史ですか」とお尋ねしました。 「晩年、川端康成先生はハンセン病患者に理解を示し暖かい交流を深められました、ハンセン病患者の文学の研究を進めております関係で、川端文学も共に学び現在に至っております」と答えていただきました。 私は、川端文学よりも病に興味を持ったのでハンセン病のことを質問いたしました。 当時、結核・ハンセン病ともに難病で感染病であること、こういった病にかかった人の精神的な苦しみ、それを取り巻く家族の悩み等を思いうかべました。 ハンセン病のことも丁寧に説明してくださいました。現在ではかかっても発症するのに10年ぐらいかかるし、みつかれば直すことができる病気であること。病気にはいろいろな悪いイメージがついて回ることも教えていただきました。 文学はただ読むだけでなく、人が生きていくうえで考えていかなければならない、宗教・倫理・経済なども含めた言語表現による芸術作品のことですごいなぁと感激しました。 若い時、読書をして「人いかに生きるべきか?」を考えておけばよかった。 また、ノーベル賞は生きている間にもらえる賞で死後はもらえないということも知りました。
川端氏が東大卒業後、関西に戻ろうとされたことを聞きました。 もしそのことが実現されていれば、関西の文学事情が大きかわつていたのかと想像してみました。私だけでしょうか・・・。 秋晴れで、コロナのことを忘れて楽しい見学会に満足いたしました。 市民の手により清掃された川端通りを仲間とおしゃべりして、いい思い出になりました。 会館の親切で行き届いた応対に心から感謝申し上げます。
11月7日 記:宝角弘枝 |