わがまち紹介
目次へ|戻る「川端康成文学館」見学の感想
令和3年10月 わがまち紹介
「次なる茨木へ」を合言葉に将来を見据えたまちづくり進む
茨木市
秋の川端通りを散策し「川端康成文学館」見学
報告
月  日 2021年10月14日(木)
集合場所 JR総持寺駅 改札出口 集合
訪問先 川端通り散策路散策・川端康成文学館(館内見学)
 秋晴れの10月14日、平成30年3月17日に開業したJR総持寺駅改札出口に全員集合しました。

JR総持寺駅
総持寺駅のアートプロジェクト
 東海道本線では初めてとなる、駅名に「JR」を冠した駅だそうです。
駅改札出口の壁面には、アートプロジェクトが有ります。半年ごとに絵が変わるとの事で、9月に絵が変わり8回目との事です。
西河原新橋
西河原新橋
 駅の北口を出て茨木市立三島中学校の壁面添いに西に向いますと、平成15年3月開通した青いアーチの西河原新橋が見えます。
 安威川をはさむ田中町と西河原1丁目を結ぶ西河原新橋(市道田中町西河原線)が開通し、西河原方面から茨木市中心部への交通の利便性が向上しました。また、夜間はライトアップも実施されています。
田中町・伏見屋本舗
伏見屋本舗
 橋を渡ると茨木市田中町に入ります。
田中町には、VG槻輪「わがまち紹介」活動で平成24年6月に訪問しています。
現在の茨木市田中町は住宅地になっていますが、明治時代は茨木北市場といわれ、食品、衣料、雑貨などいろいろな商品の卸売や小売店舗、旅籠や料理屋などが林立する商業集積地として活況を浴びていた地域です。
豆腐の「伏見屋本舗」は、当時から繁昌していたお店です。
移動販売車は、毎週決まった曜日、決まった時間に決まった地域を巡回致し気軽に利用できます。

史跡丸また
史跡丸また
 伏見屋の横の旧道を入ると史跡丸また「まるまた(門ノ前架道橋)」が見えます。
この煉瓦トンネル内の煉瓦、捩じったような、そんな感じの煉瓦の積み方です。
これは、業界用語で「捩じりマンポ」といいます。
川端通り散策路・川端康成文学館
川端康成文学館
 史跡丸またを過ぎると、「川端通り」に入ります。
昭和二四年に廃川となった元茨木川をグリーンベルトとして整備された市民の憩いと安らぎの緑の遊歩道です。「川端通り」は、ご存じ茨木市の名誉市民であり、ノーベル賞作家の川端康成氏に由来しています。
川端通り散策路でいつも感心するのは、市民の方々の清掃でゴミの無い綺麗な散策路です。
 史跡丸またから約500m歩くと茨木市立青少年センター・川端康成文学館の建物が「川端通り」の北側に見えて来ます。
川端康成は、「伊豆の踊子」、「雪国」などで親しまれる著名な作家で、昭和43年にノーベル文学賞を受賞した川端康成は、幼児期から旧制中学校卒業期まで茨木で暮らし、この時期に文学への志を深めました。
茨木市は「川端康成のゆかりのふるさと」として、多くの市民が川端康成やその文学に親しむ拠点となるよう、昭和60年5月「川端康成文学館」を開館しました。
併設のギャラリーでは、川端康成の誕生日、明治32年6月14日を記念し、毎年6月に川端康成や川端文学のゆかりによる企画展を開催されています。さらに随時、川端に因む企画展を開催するほか、近隣の美術家による展覧会が開催されています。
川端康成文学館で説明を聞く
 今回は、館内の説明をお願いしていまして、西村峰龍先生から川端康成氏の展示品を見ながらわかり易く色々と説明して頂きました。また我々からの質問にも丁寧に答えて頂きました。
最後に館長高橋照美さんからもお言葉を頂きました。
本当に有難う御座いました。
立命館大学OICInternational House
OICInternational House
 2018年3月、立命館大学大阪いばらきキャンパス近くに国際寮「OICインターナショナルハウス(OIC Iハウス)が完成しました。初めて日本で暮らす留学生が、日本の生活、習慣に戸惑わないよう、各種サポート体制を整えています。また、留学生と国内学生が共同生活を通じて国際・多文化交流や多様な学び、地域交流を促進する国際教育の場として、さまざまな活動を行っています。寮生たちは、寮生活やこれらの活動を通じて、異文化理解力や傾聴力、外国語能力等を培っています。

茨木税務署
 管轄区域は、高槻市、茨木市、三島郡です。

市民総合センター
市民総合センター(クリエイトセンター)
 茨木市クリエイトセンターは、設立されて以来地元住民の交流の場や音楽、芸術、カルチャーを楽しむ場として親しまれ続けている多目的施設である。広々とした空間と音響や照明設備にもこだわったセンターホールの最大収容人数は、車椅子席を含めて429人だそうです。
また、研修や会議、カルチャー教室、展示会などで利用することができる会議室も併設されているため、1年を通して茨木市クリエイトセンターに訪れる人が多いです。
市民会館跡地エリア
市民会館跡地エリア
 令和5年度の竣工を目指している広場と新施設として工事中です。
このエリア、みんなが考え、使い、作り上げていく「育ての広場」がキーコンセプトに一人ひとりの想いや活動が新しい跡地エリアを創造しています。
茨木神社
茨木神社
 大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(地名「茨木」の由来)を作った際、今は奥宮となっている天石門別神社が創建されたのに始まると伝えられる。当時は、現在の茨木市宮元町に鎮座していた。天石門別神社の名は、「延喜式神名帳」にも見える。楠木正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座し、以後代々城主の崇敬を受けた。織田信長は統治手段としてキリスト教を保護し、一方で社寺の破壊を行っていたが、天照大御神、春日大神(天児屋根命)、八幡大神(誉田別命)それに信長自身の産土神である牛頭天王(素戔嗚尊)だけは、さすがの信長も恐れて破却しなかった。そこで天石門別神社は社名を隠し「牛頭天王社」と号して破却を免れ、また後になって素戔嗚尊を実際に合祀したという。
 元和8年(1622年)には社殿を新築すると共に、従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社とした。明治5年(1872年)には郷社に列せられている 来たる令和4年(2022)は、現本殿が創建されて丁度四百年の年に当たります。
この佳節を迎えるにあたり、御本殿創建四百年記念事業委員会を結成し、損傷著しい御本殿の修復及び昭和4年の葺替から90年を経て雨漏が著しくなった屋根の葺替、また高床の拝殿への昇降解消のため幣殿・拝殿の造替などを実施することとなった。
 境内には、火の神様として古くから信仰の厚い愛宕神社もあります。
黒井の清水井戸
 境内左手奥に"幻の名水 黒井の清水"と称する井戸があります。
「茨城神社」では、毎年10月に「黒井の清水大茶会」が催されます。
この茶会のはじまりは、太閤秀吉が茨木に立ち寄った際、この地の「黒井の清水」をたいそう気に入り、大阪城での茶会にわざわざこの水を茶の湯として使ったという言い伝えによるものです。  
川端康成文学館で記念撮影

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