わがまち紹介
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令和2年10月 わがまち紹介
日本の歴史遺産が脈動しているまち
訪問・散策
大阪土佐堀・中之島・西天満地区
ガイドノート

この資料は、VG槻輪の活動の一つにある「わがまち紹介」用の資料です。
この地区には、歴史遺産が多くその創設者の意思が今も引き継がれています。
1.中之島(なかのしま)
江戸時代後期の蔵屋敷
 中之島は、大阪府大阪市北区にある堂島川と土佐堀川に挟まれた細長い中洲です。
中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商、淀屋常安によって元和元年(1615年)に始まった。
淀川(現・旧淀川)本流の中洲であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担った。
明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心としての役割だけでなく、国の重要文化財の大阪府立中之島図書館や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)等の文化施設や大阪帝国大学(現・大阪大学)を始めとする学校や病院が市民の寄付などで建設され、近代商都大阪においては情報と文化の発信地でもあった。
2.天満(てんま)
 天満の地名は当地に鎮座する大阪天満宮の転訛による。
大川を挟んで上町台地の北に位置する天満は、天満砂堆と呼ばれる微高地の南端にあたり、淀川が氾濫しても水没を免れる平地として古い歴史をもっている。
秀吉は天満を船運の拠点にしようと考えており、1598年(慶長3年)には天満堀川が開削されている。
また、のちに船場へ移り、さらに雑喉場・靱といった下船場へ移った生魚商・塩干魚商らも、もとは天満に居住していた。
3.土佐堀(とさぼり)
 土佐堀町域が大川の分流である土佐堀川左岸に沿って位置することに由来する。
『大阪市史』によると、この付近は豊臣期に土佐商人の群居した土佐座の地といわれ、これによって河川名を土佐堀川と名づけたと伝えられている。
4.淀屋(よどや)の屋敷跡
淀屋の屋敷跡碑
 淀屋初代の淀屋常安(じょうあん)(本名岡本常安)は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い財をなした。
その後大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷の惣年寄にも任ぜられ、中之島の開拓にも力を尽くした。
中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。
2代个庵(こあん)のとき、靭(うつぼ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富を築いた。
その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000平方メートル)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢をきわめた。
5代目辰五郎のとき(宝永2年、1705)驕奢(きょうしゃ)な生活は町人身分を越えるものとされ、その上、訴訟のもつれでとがめられ、全財産を没収、所払(ところばら)いにあい、さすがの淀屋も没落した。
没落前の淀屋の総資産は、約20億両 (現在の貨幣価値に換算すると約200兆円)だった様です。
5.懐徳堂旧阯碑(かいとくどう)
懐徳堂旧阯碑
 御堂筋の日本生命保険相互会社の南壁に銅板と石碑が建物の窪みに立て掛けられている。
●町人によってつくられた塾が誕生 1724年(享保9年)、三宅石庵(みやけせきあん)と中井甃庵(なかいしゅうあん)を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設。
教養としての学問ではなく、実用的な学問を教えた。
朱子学を中心としながら、各派の説も取り入れる自由な学風は、大坂人に合っていたといわれている。
2年後、甃庵らの奔走により、幕府から大坂学問所として公認された。
なお、懐徳堂の名の由来は、『論語』、『詩経』、『書経』からとする諸説があり、推測の域を出ない。
●商売人本位の規則 武士が幅をきかせていた江戸時代にあっても、大坂では武士は人口の1割にも満たず、民主主義の精神があった。
懐徳堂では、武士が教室の上座に座る習慣をなくして自由にした。
貧しくても学ぶ意欲があれば講義に出席できるようにし、商人の都合に合わせて早退、遅刻もできた。
当時は「商売」をさげすむ風潮が強かったが、懐徳堂では「商売」を評価し、何よりも大切な「人の道」を説いた。
やがて全国でも有名な塾へと発展を遂げ、山片蟠桃(やまがたばんとう)はじめ多くの知識人を輩出した。
●受け継がれる懐徳堂精神 140年以上の歴史を築いた懐徳堂は明治2年(1869年)、閉塾に追い込まれる。
しかし、西村時彦(にしむらときつね)(「天声人語」の名付け親)が中心になり、財界の協力を得て大正5年(1916年)、場所を移し再建された。
碑は、もとの懐徳堂の地に建てられている。
昭和20年(1945年)、大阪空襲により懐徳堂は鉄筋3階建ての書庫を残して焼失した。
蔵書3万6000冊は、すべて大阪大学に寄贈。
懐徳堂文庫となり、現在も管理・研究が行われている。
懐徳堂は、江戸時代の後半約140年にわたって大坂の学術の発展と商道徳の育成に貢献しました。
一時は、江戸の昌平坂学問所と並ぶ隆盛を誇ったと伝えられています。
中井竹山(なかいちくざん)・履軒(りけん)兄弟をはじめ、富永仲基(とみながなかもと)・山片蟠桃(やまがたばんとう)などのすぐれた学者を輩出しました。
大阪大学はこの懐徳堂を源流とする総合大学です。
6.銅座の跡
銅座の跡碑
 江戸時代、銅はわが国の重要な輸出品であった。
銅座(明和3年1766年、設置)の役割は、まず銅山からの荒銅を当所で買上げ、当時大坂で技術を競っていた銅吹仲間に精練させ(中央区島之内1-6-7に有る住友銅吹所)、それを集荷して海路長崎へ回送するものであった。
また銅の密売を防ぐため古銅類買上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片に至るまで銅座が管理した。
なお建碑のある愛珠(あいしゅ)幼稚園は、1880年(明治13年)開園、市内現存する最古の幼稚園で現園舎は明治34年竣工のものである。
6−1.愛珠幼稚園園舎(あいしゅようちえんえんしゃ)
愛珠幼稚園園舎
 愛珠幼稚園は明治13年(1880年)に創立され,現在の園舎は,元大阪府技手の中村竹松が設計し,明治34年3月に竣工した重要文化財の幼稚園です。
 園舎は,遊戯室棟,玄関棟,西保育室棟,北保育室棟,便所棟,東棟からなり,敷地周辺に高塀を廻し,また,遊戯室と保育室に面して園庭を設ける。遊戯室棟は,たちの高い木造平屋建で,屋根は入母屋造,桟瓦葺である。玄関棟には,車寄が付き,全体的に,和風で重厚な外観を呈している。愛玉幼稚園園舎は,現存最古の幼稚園建築であり,遊戯室の大空間を擁護矢を用いて作るなどの特色を有して愛珠幼稚園園舎は,現存最古の幼稚園建築であり,遊戯室の大空間を洋小屋を用いてつくるなどの特色を有しており,建築史上および幼稚園史上,高い学術的価値が認められる。また,創建以来幼稚園園舎としてありつづけていることも高く評価される。
7.緒方洪庵適塾
・・・VG槻輪は、平成29年3月16日(木)訪問しています。
緒方洪庵適塾
 幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、多くの志士を育てた蘭学塾。
適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。
適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。
塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。
塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。
「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。
適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。
こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。
現在の建物は国の重要文化財。
8.栴檀木橋(せんだんのきばし)
栴檀木橋
 栴檀木橋がいつごろ架けられたかは不明だが、江戸時代初期には建設されていたと思われる。
豪商の屋敷や蔵が建ち並ぶ北浜界隈と、諸藩の蔵屋敷が集まる中之島は大阪経済の中心で、人の往来がさかんだった。
そのため両地域を隔てる土佐堀川には早くからいくつもの橋が架けられており、栴檀木橋もそうした一つであったらしい。
栴檀木橋は現在、中之島の東部に位置しているが、江戸時代にはここが東の端だった。
備中成羽藩山崎氏の蔵屋敷があったことから、中之島の東端は山崎の鼻と呼ばれていたという。
ほかにも美作津山藩、大和郡山藩などの蔵屋敷が軒を連ねる、にぎやかな一角であったらしい。
9.大阪市中央公会堂
・・・VG槻輪は、平成29年3月16日(木)訪問しています。
 大阪市北区、大都市の真ん中。
北に堂島川、南に土佐堀川が流れる中之島の地に建つ大阪市中央公会堂。
水の蒼と木々の緑に映えるネオルネッサンス様式の美しい外観は、いつの時代も変わらず、多くの人々に愛され親しまれています。
大阪市中央公会堂は、ひとりの大阪市民、岩本栄之助氏の寄附をもとに1913年(大正2年)に着工し、1918年(大正7年)に竣工しました。
以来1世紀近くにわたって国際的な一流アーティストによるオペラやコンサートの他、各界著名人の講演会も数多く開催されるなど、大阪の文化・芸術の発展に深く関わってきました。
時代の流れとともに、その役割も様変わりしましたが、現在もなお、公会堂の壮麗な雰囲気を生かした様々な利用がなされており、市民の活動拠点となっています。
1999年(平成11年)3月、度重なる改修などにより創建時の意匠が損なわれ、老朽化が進んだことから保存・再生工事に着手し、3年半の歳月を経て、2002年(平成14年)9月に完成しました。
工事は歴史的建築物としての保存と、創建時への復元改修に加え、古い建築物に高い耐震性を与え甦らせる「免震レトロフィット」や、時代のニーズに応えて次世代まで活用できるよう、スロープやエレベーターを新設するなど大掛かりなものとなりました。
こうして美しく甦った大阪市中央公会堂は、中之島の景観に欠かせない美しい外観と内部意匠が歴史的建築物として極めて重要であるとの高い評価を受け、2002年(平成14年)12月、公会堂建築物と歴史的建築物として極めて重要であるとの高い評価を受け、2002年(平成14年)12月、公会堂建築物として西日本で初めて、国の重要文化財に指定されました。
10.大阪府立中之島図書館
・・・VG槻輪は、平成29年3月16日(木)訪問しています。
大阪府立中之島図書館
正面玄関のロビーの天井
 中之島図書館の本館(中央部分と1号書庫)は、明治37年に第15代住友吉左衛門氏の寄付によってつくられたものである。
設計は住友家の建築技師長であった野口孫市氏により、日高胖氏が技師として参加した。外観はルネッサンス様式を、内部空間はバロック様式を基本としながら、優れたデザイン力による格調の高い建築である。コリント式円柱に支えられる正面はギリシア神殿を、ドーム状の中央ホールは教会を思わせる造りとなっている。
大正11年に住友家の寄付により日高胖氏の設計で左右の両翼が増築され、ほぼ現在の建物が完成した。
昭和49年には本館及び左右両翼の2棟が国の重要文化財に指定されている。
 中之島図書館の中には、館の中とは思えないおしゃれさと、図書館ならではのゆったりと過ごせる空間が一つになったような、いいとこ取りのカフェがあります。
大阪府立中央図書館(東大阪市荒本北1-2-1)は、一般書から学術書まで幅広い分野の本を所蔵し蔵書数280万点以上。これは公立図書館単館では日本一の蔵書数です。
大阪府立中之島蔵書数は約55万冊。古文書や大阪関連の文献、ビジネス関係分野の書籍・資料に特化している。
11.水晶橋
水晶橋
 水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。
この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という、河川浄化を目的として建設されたゲートである。橋面の改装が行われたとき、さらに多くの人に利用してもらうことを願って、法律上も橋と認定する手続きがとられたので、現在は名実ともに橋になっている。
    水晶橋という名の由来は今一つはっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶のかがやきに似ているということから出た愛称であるとする説もあり、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もあって決め難い。
水晶橋は、その姿形のゆえに大阪の人々に愛されている。プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多いのはその証拠である。水晶橋の美しさの要因を考えてみると、第一には本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙が挙げられる。重厚さの中にどこか軽やかさを感じさせる。昭和57年の改装工事でベンチ代わりの植枡も置かれている。また、ライトアップがなされ、中之島の夜景に彩りを添えている。
12.佐賀藩蔵屋敷跡
佐賀藩蔵屋敷跡碑
 江戸時代、その水運の利便性から天下の台所と呼ばれた大坂・中之島に諸藩は年貢米の換金や産物の売りさばきのため、蔵屋敷を建てそこへ搬入、一時管理にあたっていました。>そのなかでも大きな蔵屋敷には舟が屋敷内へ直接入れるよう水門、船入が設けられていました。
平成2年(1990)、大阪高等裁判所構内で地下駐車場の工事のとき佐賀・鍋島藩蔵屋敷跡が発掘調査され、長大な船溜(船入)・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認されました。
堂島川の北側、東西にちょうど水晶橋から鉾流橋にかけて大阪高等裁判所の広い敷地があります。この広大な敷地が肥前佐賀藩蔵屋敷跡です。平成23(2011)、にここから江戸時代最高峰とされる同藩特製の磁器「鍋島」約350点が出土しました。珍しいものでは、入れ歯なども見つかりました。武家の社会ではその入れ歯は飾り用、見栄のために付けていたといわれています。
12−1.大阪裁判所
 大阪高等裁判所・大阪地方裁判所・家庭裁判所等が集まっています。
裁判所では一切の写真撮影は許可されませんので写真は撮れません。
13.蔵のまち天満・菅原町
蔵のまち天満・菅原町
 かつて天満青物市場としてにぎわった水辺近くには、菅原町を中心に、伝統的な建物や川に面して建てられた「浜蔵」などが今なお多く残っています。
その中で、「乾物問屋のまち」、菅原町には、現在も当時の面影を残す「蔵」が残っています。
大阪市では、天満蔵めぐりマップを作って街歩きが出来るガイドブックを発行しました。
14.鉾流橋(ほこながしばし)
鉾流橋
 天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられているため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。
 天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。
 現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。
 その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。
15.大阪市立東洋陶磁美術館
大阪市立東洋陶磁美術館
 高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝2件、国の重要文化財13件を含む約4000点が収蔵されている。
この珠玉のコレクションは、安宅コレクションを中心に、他のコレクションからの寄贈や購入を加えて、徐々にその数を増していったものである。
安宅コレクションは、大手総合商社の安宅産業および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものである。
発端は、近代日本画の速水御舟の作品を収集していた演出家、文芸評論家の武智鉄二が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案。
1951年(昭和26年)の同社取締役会で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議。
以後、御舟の代表作である「炎舞」、「翠苔緑芝」、「名樹散椿」がコレクションに加わり、最終的には日本画30点、素描76点、計106点に上る日本最大のコレクションに成長していく。
英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、他のコレクターの名品も次々と安宅コレクションに加えていった。
安宅産業は1975年(昭和50年)に経営危機が発覚。
1977年(昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併された。
16.木村長門守重成表忠碑
木村長門守重成表忠碑
 豊臣方の武将として大坂の陣で活躍した木村重成を称える碑です。
かつては、この中之島に豐國神社がありました。
木村長門守重成表忠碑もその時建てられたものです。
昭和36年(1961年) 大坂城二の丸に遷座しましたが、石碑はそのまま残ったそうです。
大阪でも最大級の石碑ではと思われるサイズです。
東洋陶磁美術館のすぐ東隣にあります。
17.こども本の森 中之島
こども本の森 中之島
 平成29年9月に大阪出身の建築家である安藤忠雄氏より、「本や芸術文化を通じて子どもたちが豊かな創造力を育む施設として活用するため、中之島公園内に「こども本の森 中之島」を整備し、大阪市に寄附するとともに、運営費用については、広く賛同者を募り大阪市への寄附を呼びかけていきたい」という提案を受けたため、当該施設を子ども等に対し、文学を中心とした良質で多様な芸術文化等に触れる機会を提供する施設として開館し、指定管理者による運営を行なわれる。
大阪市では、令和2年7月5日(日曜日)に、本や芸術文化を通じて子どもたちが豊かな創造力を育む文化施設として、「こども本の森 中之島」を開館しました。
18.大阪俵物会所跡
大阪俵物会所跡
 大阪俵物会所跡は、大阪取引所の丁度西側にあります。
説明板には以下のように記されています。
江戸時代には金・銀・銅などの重要な生産物については、幕府の厳しい統制下におかれ、会所という売買センターで特定の商人しか扱うことができなかった。
俵物と呼ばれるふかのひれや干なまこ、干あわびなどは、当時の日本の重要な特産物で、長崎から中国などにむけて輸出されていた。
この俵物は輸出入の代価に用いられることもあったので、延亨元年(1744)に大阪に会所が設けられ、ここで売買が行われた。会所ははじめ備後町にあったが、 安永6年(1777)にこの地に移り、明治まで続いた。
19.北浜レトロビルヂング
北浜レトロビルヂング
土佐堀川と中之島公園を背に、大阪証券取引所の向かい側に建つ北浜レトロビルヂング。
もともと証券の仲買業者の社屋として明治45年(1912)に竣工した建物は、英国のグラスゴー派の影響を受けており、国の登録有形文化財ともなっている。
現在は1階が英国風ケーキ・紅茶雑貨ショップ、2階が紅茶通の間で人気を集める英国アンティークの雰囲気ただよう喫茶店。
ドアノブや電気のスイッチなど、店内のいたるところに英国製のインテリアが使われている。
ケーキ、スコーン、サンドイッチなどがつくアフタヌーンティーセットがこの店の人気メニュー。
紅茶はイギリス、フランス、インド産のものなど約40種、ケーキは毎日店で手づくりされているそうだ。
2階のカフェスペースの窓からは、中之島のバラ園が一望でき、昼のひとときを過ごすのにおすすめの場所だ。
20.今橋碑
今橋碑
今橋は、大坂の陣絵図などに名前が登場することから、豊臣時代にはすでに架けられていたと推定される。
    この地は、江戸時代初期の頃まで今橋の北側には町屋がなく浜岸であったが、中期の頃から西詰め付近は両替商が軒を並べ、金融の中心街となり、特に通りをはさんで向き合った天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛が有名で「天五に平五、十兵衛横町」と称され繁昌した。
この様な町の発展に伴い、町の東にも橋がないと不便なため、京橋町の道筋に新たに架けられたので「今ばし」と呼ばれたとの説がある。
 この頃の橋は、橋長75.8m幅員5.5mで、町橋としては規模の大きい橋であり、橋のたもとから尼崎方面への乗合船も出ていた。
しかし火災被害のため幾度も焼け落ちている。
  近代になって明治14年の記録では、江戸時代と同規模であるが、木桁で鉄杭のものに架け替えられたとされている。
大正13年には橋長70.4m、幅員 8.4mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁を用い、照明灯や高欄に鋳鉄を使用した立派な橋となったが戦時中には鋳鉄類は供出された。
 現在の橋は老朽化にともない架け替えられたものであるが、照明灯や高欄については往年の姿を元にデザインされたものとなっている。
21.里程元標(りていげんぴょう)跡
里程元標
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。
ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。
明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。
現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。
また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。
なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。
22.葭屋橋(よしやばし)
葭屋橋
1784年(天明4年)に、葭屋庄七らによって開発された蟹島遊廓への通路として設けられたものであり、橋も同時期に架橋されたと考えられている。葭屋橋付近の大川・東横堀の水の流れは複雑であり、通船数も多かったため、船が橋脚へ衝突する事故が多発していたと伝わる。その上、洪水の被害も頻繁に受けていたことから、架け換え時には様々な工夫が施され、1804年(文化元年)に架け替えられたときは錦帯橋を模して途中に橋脚を設けない構造とし、さらに明治初期に架け替えられた際には、当時としては珍しい斜張橋の構造が採用された。
現在の規模に近い状態になったのは、明治末期の大阪市電敷設事業によってである。1910年(明治43年)7月に近代橋への架け替えが完成し、市電は10月に開通している。現在の橋は1966年(昭和41年)に架け替えられている。今橋と左岸東詰でV字型に架かっている形になっているが、元は別々に架かっていた。
「葭」の読み方として、辞書には「あし」しか書かれていないが、「あし」は「悪し」に通じるからと避けられ、代わりに「良し」につながる「よし」と言うようになった。スルメをアタリメと言うのと同じである。
葭屋橋の「葭屋」は人の名前だが、もともとそういう名なのか、ゲンを担いで「よしや」と名乗るようになったのかは知らない。
人名にちなんで橋の名前が付いているということは、町人が架けた橋だということだ。豪商・淀屋が架けたから淀屋橋、その初代である淀屋常安が架けたから常安橋、岡田心斎が架けたから心斎橋。
葭屋橋を架けたのは葭屋庄七という人で、橋の先にある蟹島遊郭を開発した商人の一人だった。蟹島遊郭が開かれたのは、天明4年(1784年)。それに伴って、蟹島に渡るための葭屋橋も架けられている。
23.今橋
今橋
東横堀川に架けられた、歴史ある橋。
現在の橋も、照明灯や高欄は往年の姿を元にデザインされた。
東横堀川に架けられ、『大坂の陣絵図』などに名前が登場することから豊臣時代より存在したといわれる、歴史ある橋。
橋の西詰め付近は江戸時代中期から両替商が軒を並べ、金融の中心街として繁盛した。
それに伴って京橋町の道筋に新たに橋が架け替えられたので「今ばし」と呼ばれたとか。
当時は橋長75.8m/幅員5.5mという、町橋としては規模の大きいものだった。
橋のたもとから尼崎方面への乗合船も出ていた。
火災被害のため幾度も焼け落ちており、明治時代に木桁で鉄杭のものに架け換えられた後、大正13年(1924)には、橋長70.4m/幅員8.4mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁を用い、照明灯や高欄に鋳鉄を使用した立派な橋となったが、戦時中には鋳鉄類は供出されたようだ。
現在の橋は平成6年に架け替えられたものであるが、照明灯や高欄は往年の姿を元にデザインされた。
24.大林歴史館
大林歴史館
この歴史館は、平成13年(2001)10月、大林組創業110年を機に開設しました。
大林組は、明治25年(1892)1月、創業社主の大林芳五郎(おおばやしよしごろう)によってその歩みを開始しています。明治維新後の日本の近代化への方向が定まり、あらゆる近代産業が始まろうとする時代でした。以来、山も谷もあった足掛け三世紀にまたがる当社の歴史を再確認する場を設けることで、大林組社員がその潮流の先頭波にあることをあらためて自覚し、同時に社外の多くの皆さまに、当社の伝統に培われた仕事が、創業以来の「志(こころざし)」と「責任感」と「未来指向」を出自(しゅつじ)としていることを、知っていただく機会としたいと願うものです。
すべては、以前があって現在こそが未来を創るものであることを体感する場でありたいとも期待するものです。
   大林組は、創業以来永らく、竹中工務店、奥村組、錢高組、鴻池組と並び大阪に拠点を置いていたが、2010年(平成22年)、登記上本店を東京に移転した。
25.高麗橋野村ビル
高麗橋野村ビル
 大阪瓦斯ビルディングなどの設計で知られる、近畿地方を代表する建築家安井武雄の設計で1927年に建てられた。当時としてはまだ珍しかった鉄骨鉄筋コンクリート構造で、戦前は地上は6階までであったが、1964年に7階を増築した。
堺筋に面する広い間口に対して奥行きが極端に狭い敷地に建つ。東洋的な装飾が施され、モルタル塗りの腰壁は薄い褐色である。各階間の腰壁上端を外側に迫り出させた外壁形状はエーリヒ・メンデルゾーンが当時のドイツの建築でとった手法を採用している。さらにその縁をオリエンタル調の装飾を施している。

※ 大阪北には、多くの歴史的遺産が多くの残っています。
素敵な<レトロビル&建築>巡りのガイドが多くホームページで紹介されています。
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