令和2年7月 わがまち紹介 日本遺産に指定された総持寺訪問 茨木市総持寺町 総持寺のまちの散策と総持寺参拝 |
月 日 | 2020年7月9日(木) 高槻市・茨木市に大雨警報(土砂災害)雷、強風注意報で中止 7月27日に有志の自由参加で開催した。 | ||||||||||||
集合場所 | 阪急総持寺駅改札出口 | 訪問先 | 総持寺のまちの散策と総持寺参拝 | 参考資料 | 資料名をクリックして頂くと出て来ます。 補陀洛山総持寺 ガイドブック 今も活躍している"龍と9匹の息子達" |
||||||||
記 総持寺散策・訪問は、5月は、コロナの問題で中止し、7月9日は、高槻市・茨木市全域で「大雨警報(土砂災害)雷、強風注意報」が出て中止することになりました。そこで、今までの下調べ結果を報告しますので今後訪問の参考にして下さい。 総持寺町
阪急京都線の総持寺駅を下りて徒歩五分。町の名にもなっている総持寺の山門が小高い丘の上に堂々と威容を誇ります。 地名にもなっている総持寺は、高野山真言宗のお寺で西国三十三観音霊場・22番札所にもなっています。 総持寺という地名は南北朝期にすでに見られますが、寺内町を形成していたわけでもなく、寺院を中心とした近郊農村だったようですが、江戸時代の資料によると門前に参詣客を相手とした宿が数多くあったようです。 幹線道路から離れた、小高い丘の上に総持寺の古い町並みが残されています。 大都市近郊の駅前に近い立地でありながら、地形的に周辺から隔絶されているため、非常に静かで時間の流れも周囲とは異なるような錯覚を覚えます。 総持寺を起点に東へ200mほどの狭いエリアの中に複数の大きな豪農級の屋敷を中心として、細い路地裏にも漆喰の土蔵や虫籠窓を設えた伝統的な佇まいの町家などが整った状態で残されている。 総持寺 「総持寺」が日本遺産に令和元年5月20日、令和元年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果が発表されました。 「1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼」が認定を受け、本市の西国二十二番総持寺も構成文化財のひとつとなっています。 総持寺は、西国巡礼で全国各地から多くの参拝客が訪れる古刹で、総持寺には貴重な文化財が所蔵されています。 この機会に、茨木の歴史と文化財に触れてみませんか。 西国第二十二番補陀洛山 総持寺
この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀であった。 喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていた。 中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探したが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れた。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだという。 仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられている。 亀について一言: 2世紀頃中国で生まれた道教では仙人が住むという蓬莱山を背負っているのが亀といわれ、中国では亀は竜と共に神聖な動物とされてきたようです。また、亀は神仙思想の世界と現世を繋ぐ動物とも言われている。 寺伝では元慶3年(879年)頃、藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)に伽藍が完成したと。 寺号の石標
但し、贔屓は龍が生んだ9 頭の神獣・竜生九子(りゅうせいきゅう し)の一つとされる中国の伝説上の生物で、亀に似ていますが亀ではありません。 重い物を負うことを好むといわれ、石碑の土台の装飾に用いられることが多く、石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼ばれます。 包丁塚
現在行なわれている『山蔭流包丁式』は、室町時代から伝えられており、当主が賓客を前に、座敷にまな板を置いて、眼の前で料理をして見せたことに由来しています。 庖丁式殿(開山堂)を会場に、全国各地の調理師が、烏帽子、直垂という正装で、右手に庖丁、左手には真魚箸を手にし、華麗な庖丁さばきを披露してくれます。 庖丁式を無事につとめあげた調理師には、庖丁道山蔭流宗家である総持寺から、庖丁道山蔭流の免許の許し状が授与されます。
屋根が特徴的な建物です。 「ポタラ」は観音浄土を意味する古代サンスクリット語のポータラカ(補陀洛)から来ていて、補陀洛の山並みをイメージしています。 補陀落(ふだらく、梵(ボン): Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。 その山の形状は八角形であるという。 インドの南端の海岸にあるとされた。 補陀落山(ふだらくせん)とも称す。
|