コンピュータの黎明期
| 情報処理技術遺産 開発していた真空管式コンピュータ |
大阪大学では第2次世界大戦の後、真空管式の電子計算機の開発に取り組みました。数学を専門としていた大阪大学工学部の城憲三(1904-1982)は計算機の重要性を早くから認識し、その研究を行っていましたが、大戦中にアメリカで開発された電子計算機ENIACの情報が公開されると、すぐさま電子計算機の研究に着手しました。このコーナーでは、さまざまな機械式計算機とともに、1950年に城が試作したENIAC型10進演算装置、1950年代に本格的に開発に取り組んだ大阪大学真空管計算機を展示しています。
世界にはばたく研究者
| 初代総長・長岡半太郎 湯川博士など |
大阪帝国大学には、日本の科学の中心を担う新進気鋭の研究者が集まりました。自由な研究環境のもと、数々のユニークな研究が行われました。土星型原子模型で知られる初代総長・長岡半太郎(1865-1950)をはじめ、中間子論を発表してノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(1907-1981)、八木アンテナで知られる通信工学の八木秀次(1886-1976)、サイクロトロンの建設に尽力した原子核物理学の菊池正士(1902-1974)、漆の分析を行い日本の有機化学研究を牽引した真島利行(1874-1962)などの業績を紹介しています。
みる科学
| 蛋白質構造解析 |
肉眼では見えない世界を見たいという飽くなき探求心が、光学顕微鏡、電子顕微鏡、超高圧電子顕微鏡を生みました。さらに、より小さい分子の構造や仕組を明らかにするために、X線構造解析などの技術が発展しました。大阪大学の源流である懐徳堂で学んだ中井履軒(1732-1817)が、顕微鏡による観察記『顕微鏡記』を著した頃の顕微鏡や、大阪帝国大学の菅田栄治(1908-1988)が制作した国産初の電子顕微鏡などを展示しています。また、最新の電子顕微鏡やX線構造解析法を用いたタンパク質構造解析や病原微生物の研究成果も紹介しています。
薬用資源学ラボ
| 適塾など |
「温故知新」に象徴されるように、数世紀を費やして確立・伝承されてきた伝統医学は、民族に適した最善の方法が取捨選択され進化する過程を理解し、今後の方向性に示唆してくれる貴重な情報シーズです。大阪大学に蓄積された学術標本は、「難波のくすし」、「適塾・緒方洪庵の薬箱」、「道修町と薬の流通」などに代表される大阪が誇る日本の薬文化の一翼を担ってきました。資料基礎研究系では、医薬品の創製を通じて健康に奉仕し、豊かな社会への貢献することを使命とする「薬学」の専門性を背景に、学内に保存・蓄積されている学術標本の調査・収集・分類・保存・整理を推進しています。
大阪大学の系譜
| 大阪帝国大学時代服装 |
大阪大学は、1931年に大阪帝国大学として設立され、1947年からは新制大学として現在に至っております。本学の精神的源流は江戸時代の大坂の学問所にさかのぼります。大坂町人によって設立された懐徳堂は儒学を中心としながらも、先進的な学問を開拓する多くの町人学者を輩出しました。 緒方洪庵(1810-1863)が開いた適塾は主に西洋医学を学ぶ蘭学塾で、幕末維新期に活躍する多くの人材がここで学びました。懐徳堂・適塾を源流とし、大阪医科大学、大阪工業大学、塩見理化学研究所や旧制大阪高等学校・浪速高等学校などを前身とする本学の系譜を紹介しています。
待兼山に学ぶ
| マチカネワニの化石の展示 |
このコーナーでは、大阪大学豊中キャンパスのある待兼山の自然や歴史について、さまざまな角度から紹介しています。1964年に待兼山で発掘されたおよそ40万年前のマチカネワニの化石は、全身骨格が遺された世界的にも貴重なタイプ標本です。待兼山5号墳からは類例の少ない埴輪が出土するなど、「待兼山遺跡」は国の文化財台帳に登録されています。また『枕草子』などで紹介され古来からの歌枕・名所であり、自然豊かな里山としても親しまれています。
自然教室
| 屋上の自然教室 |
大阪大学のキャンパスは自然がいっぱいです。自然教室では「阪大キャンパスに咲く花」をコンピュータで検索することができます。屋上に出れば背後の待兼山の息吹を感じることができます。
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