VG槻輪(きりん・kirin)VG槻輪わがまち紹介 わがまち紹介
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平成30年6月 わがまち紹介
美しい日本の風景を圧縮した庭園
渉成園(枳殻邸)
"新緑の「国の名勝庭園」で写真を撮ろう"
京都市北区
(その1/2)総括

月  日 平成30年6月21日(木)
集合場所 JR京都駅 中央改札出口 改札出口
訪問先 渉成園・東本願寺(自由参加)
その他
 6月18日朝7時58分ごろ、北摂を震源とするM6.1、最大震度6弱の地震が発生しました。
ほとんどの会員は、被害にあわれ、お見舞い申し上げます。
3日後の21日、余震の心配もありましたが、気分転換もかね、計画どおりJR京都駅に集合し、国の名勝庭園「渉成園」に行きました。
 東本願寺の特別なご配慮で、岡本熙子和尚さんが一緒に散策しながら丁寧に説明して下さいました。
渉成園の中には、数多くの有名な建築構造物や灯篭・石塔・石幢などがあり、数多くの庭木が四季折々に変化し、いつ訪れても静かで変化が楽しめる庭園です。
又、カメラマンの岩崎節さんが一緒に散策しながら写真の撮り方を教えて下さいました。本当に長時間有難う御座いました。
 昼食後、交流館のギャラリーで解散し、その後は東本願寺の視聴覚ホールを見学し、御影堂・阿弥陀堂を参拝して帰宅しました。
渉成園から見る京都タワー
京都市下京区
 京都市を構成する11区のひとつである。北辺を通る四条通の四条烏丸(烏丸通)から四条河原町(河原町通)までは京都府、京都市有数の繁華街となっている。 また、京都駅は、京都市周辺部のターミナルであり、周辺には京都タワー・京都駅ビルなどを中心に商業施設が集まっている。
 平安時代末期のころ、京都(平安京)の南側を下辺(しものわたり、しもわたり)、これに対し北側を上辺(かみのわたり、かみわたり)と呼ぶようになる。これが中世にそれぞれ下京、上京となった。下京と上京の境界はおおむね二条通であった。上京には京都御所があって富裕層が集まっていたのに対し、下京は商業街区であり、民衆の町であった。
渉成園(しょうせいえん)
 渉成園は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。東本願寺の東方約150メートルに位置し、ほぼ200メートル四方の正方形をなす。
枳殻(カラタチ)の木
名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。また、周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。
以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられるなど、東本願寺の飛地境内地として重要な機能を果たした。また、延宝6年(1678年)から宝暦4年(1754年)の間は、西隣に接して東本願寺の学寮(大谷大学の淵源)が置かれた。
 園内には、全敷地の6分の1を占める広大な印月池をはじめとする頼山陽撰の十三景が広がり、大書院の?風亭や、漱枕居・縮遠亭・代笠席の3茶室、第二十一代嚴如(大谷光勝)の持仏堂であった園林堂等、瀟洒な諸殿舎が点在する。殿舎内部には、石川丈山や狩野永納、棟方志功等の作品が残る。
 庭園は作庭時の姿を残すが、安政5年(1858年)・元治元年(1864年)の2度の罹災により焼失する。現在の殿舎は、慶応元年(1865年)から明治初期までに再建されたもの。7000uを超える広い池は「印月池」といい、古くは高瀬川の水が引かれていた。明治に入り琵琶湖疏水が開通すると、東本願寺の火防噴水用に蹴上から専用の鉄管で疎水の水がひかれ、この水が渉成園にも引き込まれた。
最近、この鉄管が老朽化したので井戸水を使われています。
渉成園は、静かで見所が多い庭園です。
石のアート 高石垣
 入ってまず目につくのが、不思議な石垣「高石垣」です。橋材や石臼、はたまた石碑まで使っていて、さながら石のアートです。
 庭は二つの池を回遊するように設計されています。植物や鳥たちが静かに遊ぶ様は、まさに都会のオアシスです。
明治に再建された比較的新しい庭園は池泉回遊式庭園で、唐破風の橋や楼門式建築がありと、庭園だけでなく建築も楽しめます。500円以上の寄付で充実した内容のガイドブックがもらえます。人が多くないので落ち着いて回ることが出来ます。

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