VG槻輪(きりん・kirin)VG槻輪わがまち紹介 わがまち紹介
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平成30年1月 わがまち紹介
"京街道の枚方宿場町を散策
枚方市宿のまち
(その1/2)総括

月  日 平成30年1月22日(月)
集合場所 京阪枚方市駅改札出口
訪問先 枚方宿場町散策、枚方宿鍵屋主屋・資料館見学及び会食(親睦会)
その他 冬空の曇天でしたが一滴の雨にも会いませんでした。
枚方市ガイドの会の大下さん、岡村さんに、京街道の枚方宿場町を案内して頂きました。
枚方宿鍵屋資料館では、枚方市学芸員の片山さんに説明をして頂きました。
丁寧な説明有難う御座いました。
鍵屋2階の63畳の格式ある折上げ格天井の大広間で料亭時代のもてなし文化が感じられる割烹料理と昔から伝わる料理「ごぼう汁(ごんぼじる)」を美味しく頂きました。
枚方宿の街並み
枚方宿
 枚方宿(ひらかたじゅく)は、現在の大阪府枚方市に置かれた、東海道五十七次または大坂街道の宿場でした。 淀川水運の港としても栄え、往時を偲ばせる一部の建物が現存しています。
歴史
 文禄5年(1596年)に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が、大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道 (大坂街道)として用いられるようになった。「宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、此段、寺沢藤右衛門へ申出、追って退散のもの帰住致す」(天正年間(1573年 - 1591年)頃)という記録により、この頃にはすでに宿場としての起源があった。
慶長6年(1601年)、徳川家康がこの京街道を東海道の延伸部とし、伏見、淀、守口の宿場と共に東海道枚方宿として定めた。「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年))や「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年1789年)という記録により、この頃には枚方宿が東海道の一部であった事がうかがえる。
ほぼ京都と大坂の中間に位置する交通の要衝であり、陸の街道だけでなく、街道とほぼ平行して流れる淀川を利用した水上交通の中継港としても繁栄した。
本陣跡 説明板
 参勤交代の際には親藩や譜代など徳川家に縁故の大名が枚方宿で休泊した。中でも御三家のひとつ紀州徳川家の大名行列は、その格式と威光を感じさせる大行列であったため、多くの農民が見物に訪れるほどだったという。史料によれば、その行列規模は御三家筆頭尾張徳川家(66万石)、外様大名筆頭加賀前田家(103万石)をも凌ぐものだったとされる。天保12年(1841年)、紀州徳川家11代藩主徳川斉順の参勤交代では武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁し、準備のために七里飛脚や家臣が藩主が到着する数ヶ月前から来宿したという。
その後、明治時代になり蒸気船の登場、鉄道の開通(明治6年(1876年)東海道本線(JR京都線)、明治43年(1910年)京阪電車)が相次ぎ、淀川水運が衰退した事により急速に衰退した。

宿場の構成
枚方宿のまち 説明板
 岡新町、岡、三矢、泥町の四ヶ村が枚方宿とされた。枚方宿からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。 東見付から西見付まで、東西13町1間(1447m)、道幅2間半(4.5m)。北側の淀川と南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山(御殿山)に挟まれた地域に東西に細長く続いていた。
三矢村が宿の中心にあたり、宿場には 本陣(池尻善兵衛家)、家老専用本陣1軒(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場2ヶ所、旅籠は大17軒中18軒小20軒の合計55軒、船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ヶ所、郷蔵4ヶ所、船番所2ヶ所、紀州侯七里飛脚小屋、町飛脚などがあった。問屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒あったという。

淀川水運
船番所跡
 京都伏見と大坂八軒家を 結ぶ淀川水運は、天下の台所と呼ばれた大坂と大都会である京都を結ぶ物流に重要な地位を占めた。三十石船、二十石船など一千隻以上の大小様々な舟が行き交っていた。旅客専用であった三十石船は、夜と昼の一日二便、所要時間は下りが半日、上りは一日だったという。流れの速い場所を上る時には、川の両岸から 交互に綱で引っ張り上げていた。行き交う船を監視するための番所が枚方宿に設けられていた。
「餅くらわんか、酒くらわんか・・・」などと言い酒や食べ物を売るくらわんか舟が名物となり、その様子は歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」や十返舎一九「東海道中膝栗毛」にも描かれている。
しかしその一方で、淀川に面した枚方宿を利用する者は主に京へ上る者に限られた。上りの船は下りの倍の料金が掛かる上に、所要時間も徒歩と変わりがなかったためである。天保4年(1833年) の記録によれば、上りと下りの比は10:1と極端に上りに偏っていた。旅客だけでなく貨物においても、下りの貨物は殆どが船便を利用するため、下りは慢性的に空荷だったという。上り下りの片方だけしか利用されない片宿であった事が、枚方宿の経済を圧迫する要因となっていた。
対岸の摂津国(現高槻市大塚)とは渡し舟(枚方渡・大塚渡)で結ばれた。

鍵屋資料館
鍵屋 主屋
 資料館は、平成9年(1997)まで料理旅館であった「鍵屋」の建物を利用しています。京街道に面していた「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、また、幕末頃になると淀川 三十石船の「船待ち宿」としても繁盛しました。近代以降は、枚方きっての料理旅館として、枚方周辺の人々に宴席の場を提供してきました。
 敷地内には、枚方市指定有形文化財の「主屋」と「別棟」の2つの建物があります。19世紀初頭の町家建築の構造を残した「主屋」は、無料スペースとして公開しています。一方、「別棟」は昭和初期に改築された建物で、1階部分に枚方宿関係の史資料や発掘遺物、民俗資料、模型を展示しています。枚方宿の歴史を学べる展示施設であるだけでなく、歴史的建造物の中で往時の旅の雰囲気を体感し、また彫刻欄間や格天井など、料亭だった頃のしつらえを楽しむことができます。

料理旅館「鍵屋」
鍵屋説明版
 料理旅館だった頃の鍵屋は、その創業を天正年間と伝えていました。江戸時代後期の鍵屋は、商人宿として記録され、比較的安価な宿屋でした。しかし、幕末には江戸町奉行方なども訪れており、格式の高い旅館に成長したと考えられます。
 江戸時代の淀川は、枚方側に食い込むように流れており、鍵屋が立地する堤町のあたりでも、屋敷のすぐ裏手が淀川河岸に面していました。そのため、この立地を生かし、淀川を往来する乗合船の"船待ち"を兼ねた宿屋が現れたようです。
京都と大坂を往来した旅人の饗応の場でもあった。

VG槻輪の昼食・新年親睦会
鍵屋の大広間で割烹料理を楽しむ
 鍵屋資料館の2階には、淀川を臨める63畳の大広間があります。格式ある折上げ格天井、4間幅の長押など、料亭時代のもてなし文化が感じられる、贅沢な造りのゆったり空間です。
12時から『割烹料理」を楽しんで欲しいと準備しました。
毎朝、大阪中央卸市場(福島)に仕入れに行き、常に新鮮な魚介類を提供する鮮魚店直営の割烹料理屋の料理を楽しみました。
特別にお汁として、昔から伝わる料理、「ごぼう汁(ごんぼじる)」を楽しみました。 昔、淀川の「くらわんか舟」が、三十石船に近寄り、ごんぼ汁を売っていました。
「ごんぼじる」は今でも枚方の家庭には、郷土料理として各家庭の味を大事にして残っているとの事です。
枚方市では、学校給食にも出るようです。
食後、親睦会として「ビンゴゲーム」が2回も開催され、各回とも全員に景品が当たり楽しい親睦会でした。
動画もお楽しみ下さい。ここをクリッキして下さい。
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