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平成19年12月 わがまち紹介
"大阪の心臓部として業務地・文教地区のまち
大手町

月  日 平成29年12月7日(木)
集合場所 大阪府警察本庁舎玄関前
訪問先 大阪府警本部本庁舎見学
その他 晩秋の秋晴に大阪府警本部本庁舎を見学しました。
事前に「見学者名簿」を提出するなどして見学許可を得ました。
府警本部施設課庁舎管理室の澤井さんや各部門の方々に丁寧な説明をして頂きました。
本当に有難う御座いました。
大阪市中央区大手前
 江戸時代には、大坂城の正面虎口である追手口(大手口)は大坂城代が警護に当たり、現在大手前となっている町域には大坂城代下屋敷、京橋口定番上屋敷、大坂東町奉行所などが置かれていた。明治に入ると兵部省(のち陸軍省)の所管となり、大阪陸軍病院などが建てられた。
1879年の郡区町村編制法施行の際に、東区の町名として大手前之町の町名が誕生した。
ただし、大手前之町は現在の大手前より町域が狭く、現在の大手前1丁目のうち京街道沿いは京橋前之町と京橋1丁目、上町筋以東は馬場町の一部で、大手前4丁目は全域が法円坂町の一部であった。
大正後期まで大手前之町は陸軍の施設で占められていたが、南隣の法円坂町へ移転した輜重兵営跡地へ、1923年に大阪府立大手前高等女学校が梅田から、1926年に大阪府庁が江之子島から移転した。
敗戦後は府庁の別館などが建ち、1958年には中部憲兵隊司令部跡地に大阪府警察本部が城内から移転した。

大阪舎密局跡
大阪舎密局跡地碑と
K.W.ハラタマ博士像
 大阪府警の本町通りの道路沿いに大きな楠が残されています。クスノキの下には日本の化学の父ハラタマ博士の胸像と史跡・舎密局跡の石碑があります。「舎密局」と書いて「せいみきょく」と読みます。
「舎密」は、オランダ語で科学を意味するChemieの当て字です。
 大阪舎密局は、日本最初の理化学専門学校として1869(明治2)年に開校した学校です。
教頭にはオランダ人の科学者ハラタマ(K.W.Gratama:1831〜1888)が迎えられ、西洋の近代化学・物理学を主とする講義と実験の授業が行なわれました。
舎密局での講義録は、『舎密局開講之説』、『理化新説』、『物理日記』、『化学日記』などとして出版されている。
 舎密局はその後名称を変更されるなどし、1872(明治5)年にその役目を終えたが、その流れは京都の第三高等学校から京都大学に受け継がれています。
 この跡地碑は1979年に建立されました。
また2000年の秋には日蘭交流400年の記念として、舎密局の跡地碑の横に、新たにハラタマの像が建立されました。

大阪府警察本部
大阪府警本庁舎
 約21000人の警察官を擁する大阪府警の本部がある。
大阪城に隣接して立っており大阪府庁も近い。
警察庁舎としては全国最大級の規模で南東隅を丸く切り取った外観を特徴的としている。
最先端のハイテク技術を導入した影響もあり総事業費は617億円とかなりの巨額になった。
著名建築家の黒川紀章氏が設計に携わっている 1955年に発足した大阪府警本部の庁舎は当初、大阪府庁にあった本館だけでなく三つの別館など複数の場所に分散していた。
 効率的な運用のために56年9月から始まった庁舎の新築工事は、58年4月に一部完成の段階で刑事部などが移転。
新庁舎はガラス張りで明るく、取調室にも暖房や通風換気装置が設置された。
当時の新聞には、留置人の健康を保つために日光浴ができる遊歩道や婦人専用浴室も設けられるなど人権尊重に気を配っていると書かれている。
工事はその後も続き、この写真が撮影された59年2月末にほぼ完成した。
3月には残りの部署が移転して、文字通り府警は1カ所に集約された。
大阪府警本庁舎内で
記念写真
 その後、耐震性の問題などで新たな庁舎の建設が発表されたが、府の財政難で着工すら危ぶまれた。
95年の阪神大震災で災害対策の拠点としての役割が再認識されたことで98年11月から建設が始まり、2007年12月に現庁舎が完成した。

「難波宮を歩いてみよう」に参加して
 大阪府警本部本庁舎見学後、大阪歴史資料館1階にある「スターアイル」に昼食の場所を予約していたので、各人が好きな物をえらび楽しみました。
その後、私はNHK大阪放送局のBKプラザ9階で一般公開している、「4Kスーパーハイビジョン試験放送」を見学した後、難波の宮遺跡の「難波宮を歩いてみよう」に参加しました。
難波宮は現在大阪市のど真ん中、大阪城の南に「史跡難波宮跡」として残されているが、前期後期を通じての難波宮の役所も含めた全域は、周辺の広範囲に及んでいる。
しかしながら現在ではそれらの領域には建物が密集していて、やたらと掘り返すわけにはいかない。
NHK大阪の建物が大阪市博物館と併設して建て替えられた際出現した建物跡は、現在博物館の地下に地階遺跡として保存されています。
博物館のボランティアの方が、地下に残る遺構展示などを長時間案内し説明してくれました。
大阪歴史資料館の
ガイドさんの説明を聞く
博物館とNHKの敷地には5世紀の大型倉庫群や、大化の改新後、孝徳天皇が造営した難波長柄豊崎宮などの遺跡が発掘されています。
説明を受けなかったら見逃してしまいそうになる柱のあとが、タイルの床に柱のあとを色を変えて表示されています。
地下に案内されると、光を灯した白い行灯が柱の代わりに立てられています。
古墳時代中期の倉庫群は16棟以上あり、1棟の床面積90u以上あるとのことです。
整然と並び、すぐれた技術と設計技法で建てられていて、巨大古墳を築いた河内王朝によって造られた遺跡です。
この遺跡の下に駐車場が在ると聞いて、現在の建設技術でも難工事だっただろうと思われます。
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