わがまち紹介
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平成19年10月 わがまち紹介
日本の豪商・財閥を生んだまち
大阪市西区江戸堀
大同生命 大阪本社(特別展示「大同生命の源流"加島屋と広岡浅子"」)

月  日 平成29年10月16日(月)
集合場所 大同生命 大阪本社 1階 ロビー
訪問先 特別展示「大同生命の源流"加島屋と広岡浅子"」
大阪国際会議場(グランキューブ大阪)
その他 1) 秋雨でしたが決行しました。
2) 大同生命 メモリアホールでは、特別展示解説員の永田紀さんに長時間わかり易く説明をして頂きました。本当に有難う御座いました。
土佐堀川
 なぜ土佐藩(現在の高知県)と離れたこの地に「土佐」の名がついたのでしょうか。
倒幕の立役者"薩長土肥"の4雄藩(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)の一つ土佐藩(廃藩置県以前に土佐国)は、これも商売上手な藩であった。
土佐の鰹を商都(大阪)へ運び、そこから全国へ流通させた。その市が立ったのが鰹座。
現在の新なにわ筋と長堀通りの交差点、鰹座橋(かつおざばし)はそのなごりです。別名土佐殿橋(とさどのばし)とも呼ばれた。
西長堀公園内
(北堀江4丁目1)
江戸期の大阪市西区は土佐堀(とさ=高知県)、江戸堀(えど=東京)、京町堀(きょうまち=京都)、阿波掘(あわ=徳島県)、薩摩堀(さつま=鹿児島県)、立売堀(いたちぼり"いたち"は伊達藩(だてはん=仙台)の読み替えとの説もある)、長堀、堀江川、道頓堀川が縦横に通じる文字通り水の都で、全国物資の流通センター的存在であった。
 土佐藩は西区鰹座橋一帯の長堀川両岸に蔵屋敷街を形成し、鰹や木材を大いに売りさばいた。
そして、蔵屋敷の鎮守社として土佐稲荷神社(現在:北堀江4-9)を置き、あみだ池筋が長堀川(現、長堀通り)を渡る橋に故郷土佐平野の北にそびえる白髪山から、白髪橋(しらがばし)と名付けたと言う。
幕末期、長崎での土佐藩の対外国への面目を掛けた後藤象二郎の豪遊や、軍艦などを大量に購入したことで、資金難に陥った土佐藩の財政改革に抜擢されたのが岩崎弥太郎三菱財閥の創始者である。
岩崎は強力な指導力を発揮して藩の工場や商業組織を立て直す一方、私有化してその本店を(現在の大阪市西区)に置いた。
もとの「大阪土佐商会」(西区役所通り)を「九十九商会(つくもしょうかい)」という海運業の私商社に改組、改称したのだ。
さらにこの土地が、物流の要となる 3本の川(淀川・安治川・木津川)に恵まれた土地であったため、三川商会(みつかわしょうかい)とし、明治6年(1873)に三菱商会に変名した。
土佐稲荷神社境内
(北堀江4丁目9)
 現在の、三菱商事、東京三菱UFJ銀行、日本郵船などの業務はここ西区から始まったのです。
その後本店を東京に移し、日本を代表する大財閥となるが、住友家や安田家、三井家の財閥が創業者の名前で呼ばれるのに対し、三菱のみが岩崎家の名を付けなかったのは土佐藩への遠慮だったと言われています。
(※参考:「堀江 と 土佐 と 三菱 と」のHPを参照・抜粋し作成しました)

大同生命旧肥後橋本社ビルと
旧肥後橋
肥後橋
江戸時代、肥後橋の北詰の中之島に肥後藩(現在の熊本県)の蔵屋敷があり、このあたりは「肥後島町」と呼ばれた。
明暦3年(1657)の「新板大坂之図」には「肥後殿橋」とあり、古くはこう呼ばれたこともあったらしい。
肥後藩の蔵屋敷は元禄時代になって中之島西部の越中橋北詰へ移転したが、橋名と町名はそのまま残った。
 肥後橋が渡辺橋の通りに移ったのは明治21年(1888)。
明治18年(1885)の洪水で流失した後、渡辺橋と共に鉄橋で架けられた。
肥後橋・渡辺橋の通りは、明治7年(1874)に開業した大阪駅へのメインストリートであったため、いち早く鉄橋化されたものと思われる。
 大正15年(1926)に第一次都市計画事業によって完成した橋は、中央部がスパン27.0mの鋼アーチよりなり、両側に橋台兼用のコンクリートアーチがあった。
意匠の様式はスパニッシュルネッサンス式と呼ばれ、河川上の橋脚の位置に豪華な飾塔を立て、非常に華やかで、かつ重厚な作りの橋であった。
 この橋も戦後になって四ツ橋線の地下鉄3号線を通す工事に伴って架け替えられた。
円盤状の支柱をもつユニークな高欄をもっていたが、平成6年(1994)に橋面と高欄部の改装が行われ、より華やかなデザインのものになった。
(※参考:ウィキペディアより抜粋しました)

大同生命 大阪本社 特別展示
大同生命の源流"加島屋と広岡浅子"
加島屋 (かじまや)
平成27年度後期連続テレビ小説第93シリーズ「あさが来た」(NHK)のヒロインのモデルにもなった広岡浅子は、幕末の京都、出水三井家に生まれ、数え17歳で大坂の豪商・加島屋に嫁ぎ数々の苦境を乗り越え、明治維新の動乱により家勢が傾いた嫁ぎ先を存続の危機から救った。
江戸時代の大坂の豪商「加賀屋」には、玉水町の久右衛門家(広岡姓)と、大川町の作兵衛家(長田姓)の2っがあり、広岡浅子が嫁いだのは前者の分家(加島屋五兵衛家)である。
『大同生命七十年史』(昭和48年(1973))によると、加島屋久右衛門家は、村上源氏に連なる赤松家を遠祖とし、寛永2年(1625))に御堂前で精米業を始めた正教が初代・加島屋久右衛門を名乗った。
3代目が事業拡大をはかって両替店兼諸国取引米問屋を営み、4代目が大いに商才を発揮。
以後300年余り続く豪商加島屋の基礎を作ったとされる。
のちに江戸幕府から「十人両替」に任命され、鴻池家と並び称される豪商であった。
※ 十人両替: 江戸幕府が大坂の本両替仲間のうちから,仲間の取締りと同時に公金の取扱い、米の買上げ、御用金の調達などの公用をつとめさせるため選任した10人の御用両替商。
なお、平成27年(2015)には、加島屋久右衛門家が幕末に各地の藩に貸した金の借用書や広岡浅子の手紙など、約1万点の資料が奈良県橿原市の民家で発見された。
一方、加島屋作兵衛家(長田姓)は、寛永年間に大坂に移り、享保年間に米仲買となって玉水町に店を構えた。
肥後藩蔵元掛屋、宇和島藩紙方蔵元掛屋を勤めた。
天明年間頃に大川町に移転。
その後も諸藩に貸付を行い、万延御用銀は鴻池、玉水町加島屋とともに最高額3000貫目を引き受けた。
明治維新にて新政府の財政に協力し、維新を乗り切ったが、明治6(1873)年、陸軍省預り金の即時上納を命ぜられて果たせず、倒産・閉店した。
(※参考:大同生命のHP及びウィキペディアより抜粋し編集しています)

大阪府立国際会議場と
堂島大橋
大阪府立国際会議場(グランキューブ大阪)
大阪府立国際会議場は、「グランキューブ大阪」の愛称で親しまれ、大阪府と大阪財界が出資して設立した株式会社大阪国際会議場が指定管理者となっている。
地上13階、地下3階の鉄骨造、建物の高さは104.5mである。
設計は黒川紀章による。
メインホールは最大2,754人の収容が可能でその他会議室やイベントホールが設けられている。
なお、隣のリーガロイヤルホテルとは1階の連絡通路で繋がっており、機能補完が可能である。
平成12年(2000)に日本で開催される予定であったG8サミット(主要国首脳会議)誘致のため大阪国際貿易センターの跡地に大阪府が建設し、同年4月に開業した。
結果的にサミットは沖縄県他(九州・沖縄サミット)で開催されることとなったが、2001年に世界観光機関(WTO)総会、2002年の世界水フォーラム、2004年の国際ロータリー大会、2008年6月のサミット財務相会議などの国際会議の会場となった。
他にもコンサート、展示会などが開催されている。
大阪駅から近く、近隣にリーガロイヤルホテルをはじめとした宿泊施設が多いことも特徴である。
(※参考:ウィキペディアを参考にしました)
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