わがまち紹介
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平成19年9月 わがまち紹介
「天下の台所」と呼ばれた蔵屋敷まち
大阪市北区中之島(日本銀行大阪支店)

月  日 平成29年9月13日(水)
集合場所 第一集合場所:大阪市役所1階市民ロビー
訪問先 日本銀行 大阪支店
その他 1) 雨天決行
2) 参加者は事前に日本銀行大阪支店に名簿を提出しています。
3)参加者名簿は、申し込み順で、定員になり次第締め切りました。
4)受付警備の都合上、全員揃って入門します。(警備員の案内に従って入門しました)
5)警備上、金属探知機ゲートの通過。
6)お渡しされる『見学証』をいつも着けて下いました。
7)日本銀行敷地内(建物内、外)での写真・ビデオ撮影、録音、歩行中のスマートフォン 操作、ゲームソフト・ゲーム機器の使用および飲食・喫煙は禁止。
天   候 晴天
中之島(堂島)
江戸時代、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、日本における経済の中心的な役割を果たしていました。運河が整備された「水の都」である特徴を活かし、海運・水運により日本各地から物資が集められ、商業が発展しました。
また、各地の大名諸藩の多くは、現在、日本銀行大阪支店のある中之島に蔵屋敷を設け、年貢として納められた米を金銭に替え、藩の財政を運営していました。
日本銀行大阪支店を大江橋より
このため、現在の銀行に相当する両替商が数多く大阪の地に集まっていたほか、堂島には米の取引所(堂島米会所)が設立されました。この取引所は、先物取引という高度な取引手法を世界でおそらく初めて導入したことで知られています。江戸時代の大阪は日本のマネーセンターでもありました。
幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨て(両替商や商人が大名に貸付けていたお金の大部分が返済されませんでした)などから、大阪経済は一時衰退しますが、その後、多くの近代企業や銀行が設立され、大阪は再び経済的な輝きを取り戻していきました。
日本銀行大阪支店の中庭に植えられている2本の木は、ともに江戸時代以前からの由来を持つものです。樹齢100年を超えるクスノ木は、天正11年(1583年)の豊臣秀吉による大阪城築城の際、天守閣からちょうど20町(2.2km)離れたこの場所に距離を計る目印として植えられたクスの子孫と伝えられています。
(※ 日本銀行大阪支店のホームページから抜粋して作りました)
江戸時代の中之島周辺は、蔵屋敷の町でした。全国の各藩は、ここに年貢米や特産物を運び込み、相場を見ながら販売したのです。江戸時代後期の蔵屋敷は、中之島の中だけで40余りを数え、その周辺地区も加えると100近い蔵屋敷が並んでいました。
大阪市役所の地は、赤穂藩蔵屋敷跡で、市役所と日銀の間の御堂筋は水戸藩の屋敷で、日本銀行大阪支店の地は、金沢藩や島原藩の蔵屋敷の屋敷でした。
日銀の屋敷内に立つ銀杏の木は、島原藩蔵屋敷に生えていたものと伝えられ、樹齢200〜300年と推定されるイチョウの木で蔵屋敷の時代をしのばせる数少ない風景です。
(※ 関西・大阪21世紀協会の資料より)
駅逓司大阪郵便役所跡
駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡(大阪市のホームページの歴史の散歩道より抜粋)
 わが国最初の郵便制度が設けられたのは、明治4年(1871)3月のことである。まず大阪−京都・東京間の開設があり、ここにその郵便役所がおかれた(元島原藩蔵屋敷)。さしずめ今日の中央郵便局にあたるものであった。ポストも設置されたが、最初の3日間で53通が投かんされ、東京までの所要時間は約75時間であった。

日本銀行大阪支店(日本銀行大阪支店のホームページ「支店長のご挨拶」より抜粋 )
日本銀行大阪支店は、1882年12月の開設以来、百三十余年にわたり、関西経済の発展とともに歩んでまいりました。
 日本銀行の支店は、各地の金融機関等と力を合わせ、次のような役割を担いながら、地域の経済を日々支えています。
 @地域の経済活動で必要となる現金を円滑に供給すること。また、地域に流通するお札をきれいな状態に保つ こと。
 A「政府の銀行」として、地域における公共事業代金などの国の支払いを正確に、遅滞なく実行すること。 また、企業や家計から納付された国の税金や保険料などをしっかり管理すること。
 B金融機関による資金の受払いや貸付がしっかり行われていることを日常的に確認し、状況に応じて、 そのために必要となる資金を金融機関に供給すること。
 C地域の景気や金融情勢を調査・分析し、地元に対してお伝えしていくこと。

日本銀行大阪支店
日本銀行大阪支店旧館(日本銀行大阪支店のホームページより抜粋)
 日本銀行大阪支店の顔ともいえるのが、御堂筋に面し、ドーム型の屋根を持つのが旧館です。
 旧館は、明治36年(1903年)に建設されました。日本銀行大阪支店は、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島にあります。この場所には、江戸時代、島原藩や水戸藩の蔵屋敷があり、明治の初めには、今の郵便局である「郵便役所」が大阪で最初に設けられたほか、実業家の五代友厚が別邸を構えました。
(※ 五代友厚は、朝の連続ドラマ「あさが来た」で幕末を描いたりイケメン演じる「五代才助」です。幕末の薩摩藩士で、後に実業家となる)  旧館は、明治建築界の第一人者である辰野金吾博士により設計されました。辰野氏は重要文化財に指定されている日本銀行本店や東京駅の赤レンガ駅舎などを設計したことでも知られています。建物外観のデザインは、ネオ・ルネッサンス様式を主に取り入れています。
 築後80年を経て、老朽化と地盤沈下が進んだため、旧館は昭和55〜57年(1980〜82年)にかけて、改築工事を行いました。工事の際には、「歴史的価値のある建物をぜひ残してほしい」という地元の皆様などの熱心な声を踏まえ、可能な限り、元の作りを残す方法で工事を行なわれました。外観については、御堂筋から見える東・南・北3面の外壁のほか、ドームの両側に三角屋根を組み合わせた屋根を保存しています。内部については、旧貴賓室、大階段などを復元・保存しているほか、見学者に支店の業務や歴史を説明するための広報ルームを設けています。
旧館の屋根(日本銀行大阪支店のホームページより抜粋)
 旧館の屋根は、真ん中にドーム型の屋根とその両脇に三角屋根(四角すい)を組み合わせた形になっています。 この形状はベルギー国立銀行をモデルにしたといわれています。屋根全体が薄緑色になっているのは、三角屋根の部分を除いて青銅板に緑青(ろくしょう:緑色のサビ)がかかっているためです。 このような屋根は神社やお寺のひさしや下屋根にもみられます。 また、銅質の素材は一旦表面が酸化すると、鉄などに比べて、材質の内部まで腐蝕が進行しにくくて長持ちするという特徴があります。
貴賓室
旧館の外壁(日本銀行大阪支店のホームページより抜粋)
 旧館の外壁は、建築当時はレンガ壁に花崗岩を積んだものでしたが、現在は内側のレンガ壁を撤去して鉄筋コンクリート壁に置き換えられています。 建築当時は白色系の壁面でした。しかし、明治以来からの煤煙(ばいえん)や、戦時中に空襲を回避するために塗られた薄墨などの汚れが付着し、壁面が薄黒くなっています。そうした汚れなどを落し過ぎないように注意しながら、新館との色調のバランスをとりました。 旧館の改築工事は、御堂筋側から見える東、北、南の壁面だけを残し、西面、屋根、床面を取り外すことによって行い、工事終了後に屋根を再び取り付けられました。
旧館の記念室(日本銀行大阪支店のホームページより抜粋)
 記念室の扉の上部には草花のモチーフが彫刻されており、ステンドグラスは淡いブルーになっています。
ステンドグラスの内側の四角いガラスは開閉できるようになっています。

旧館の階段室(アーチ式階段)(日本銀行大阪支店のホームページより抜粋)
 この階段は明治36年建築当時のものを移築したものです。階段を支える柱がないことが特徴となっています。
柱がないのに強度を保てているのはアーチが重量を分散させる役割をしているためです。
 また、階段は細部に至るまで精密にデザインされていて、専門家から高い評価を得ています。

日本銀行大阪支店及び旧館の写真は、日本銀行大阪支店のホームページをご覧下さい。
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