わがまち紹介
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平成19年5月 わがまち紹介
平安京の中心であったまち:京都市上京区

月  日 平成29年5月18日(木)
集合場所 京都市営地下鉄「丸太町」駅北改札出口
訪問先 京都府庁旧本館、京都御苑 旧閑院宮邸跡、拾翠亭
その他 1)京都府庁旧本館:京都観光文化を考える会・都草の方の説明をして頂きました。
2) 拾翠亭:お茶室と庭園を散策
3) 旧閑院宮邸跡:館内及び庭園を散策
天   候 そよ風にに吹かれた五月晴れ
上京区
 現在の上京区は、東は鴨川、西は紙屋川、北は鞍馬口通、南は丸太町によって区切られた長方形の地域です。交差する一条通と堀川によって、大きく四つの地域に分割されているが、中世、近世の上京もこうした地域区分の上に歴史的な展開をしてきた。
東北地区には中世以来武家屋敷や公家の下屋敷が多く、東南地区は御所と公家屋敷を擁する行政地区としての性格を持っていた。また、西ノ京や大将軍といった庶民の生活地域を持つ西南地区、西陣と呼ばれる代表的な伝統産業地域のある西北地区など、各地域が特徴を持って形成されてきたのである。
 上京区のもう一つの特色は、道路名や町名としての「辻子(図子)」(ずし)が多いことだ。上京区の中でも一条以北、智恵光院以東、烏丸以西に辻子の集中地域があり、京都市内約100例のうち実に50例がここに集中している。
一般的には、町通りから派生する横通りに対して辻子の名称が付けられたようであるが、それは、町通りになる前段階の道を意味する。
 平安時代、京都の北端の道路は一条通で、それより北は人家も疎らな未開発地域であった。しかし、中世になって都市化が進み、烏丸通や室町通、新町、油小路、堀川、大宮などの南北の道路が北へ延びると、それらの道路の両側に家が建ち並び、町並みが成立する。
 また、上京区を代表するものが御所と西陣だとするなら、それはまさに京都の表徴である。上京は京都の町の典型であり、日本文化の原点であると言っても過言ではない。そこには、大社名刹は言うに及ばず、三千家の家元が茶の湯の伝統を伝え、鴨川のほとりには頼山陽が「山紫水明処」を構えていた。また、元誓願寺通小川東入ルには狩野元信が住んだという狩野辻子、油小路今出川上ルには本阿弥光悦の生家があったという本阿弥辻子など、文化・芸術の薫り高い旧跡が各所に点在する。
京都府庁旧本館
京都府庁旧本館
 京都府庁舎の建設が議会で承認されたのは明治33年(1900年)のことで、翌34年11月に起工した。
当時は、地方行政の骨格も定まり、行政事務の拡大と細分化、官吏数の増大があり、そのため庁舎機能の拡大と多様化に対応できる建物を計画することと、それまで庁舎と一体ではなかった府議事堂を庁舎内に設けることが求められた。
また、外観はこれまでの和風建築とは異なる正統的な西洋建築の意匠が要求されたため、先に完成していた東京府庁舎(明治27年)や兵庫県庁舎(明治35年)を参考に、よりよいものを目指して設計された。
工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要して、明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルで、創建当時は正庁(庁舎の広間で公式行事や式典を執り行う室)・知事室・議場・貴賓応接室・議長室など大小55室で構成され、中庭は、西欧風の整形式庭園として、しだれ桜を中心に中高木が植えられている。
以後1世紀、旧本館は現在も、府庁のシンボルとして存在している。

京都府庁旧本館旧知事室
旧本館の文化財としての価値
(1)「西洋建築の様式的習熟の高さを示すものであること」
建築の基本モチーフはルネサンス様式に属し、建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっており、西洋近世の大邸館をほうふつさせるものがある。
明治30年代は、日本人がこうした西洋建築における様式操作を適切に行えるようになり始める時期であり、本建築はその代表と位置づけられる。
建物内部においては、随所に和風の優れた技術が巧みに取り入れられており、内部意匠は建築よりもむしろ工芸品といった趣さえ感じさせる。
(2)「近代的行政庁舎建築の歩みをよく物語るものであること」 明治維新以来続けられてきた近代的行政庁舎の模索の総決算的建築であり、以後、大正期後半までは、府県庁舎の典型として模範にされた。
近代日本が生み出した府県庁舎のうち、東京府庁舎はすでになく、兵庫県庁舎は、昭和20年の戦災で壁体だけを残して焼失したが、近年、外観を建設当時に復原し、内部は大改造し迎賓館兼県政資料館として再生した。
それらの中、京都府庁旧本館は本格的に改修するような工事はこれまで行われておらず、明治期の形態を損なうことなく、府県庁舎の全容をとどめている点が評価できる。

拾翠亭
拾翠亭
 拾翠亭は五摂家の一つであった九条家の茶会のための離れとして、200年ほど前の江戸後期に建てられ、九条家の現存する唯一の建物です。
 建物は数奇屋風の書院造りで、外回りには縁高欄と言われる手すりが施され、簡素な中にも貴族的な外観です。
 また屋根の形も「切妻造」「入母屋造」が組み合わされて、優美な外観を呈しています。
 一階は主として、十畳の茶室の広間と七畳半の控えの間、その広間の北側の小間になっており、今も二つの茶室が残されていて、現存する公家屋敷の茶室としては数少ない建造物で、貴重な文化遺産です。
 当時は、貴族や公家、文化人の社交の場として利用され、茶会や歌会などに使用されていました。
屋敷は残っていませんが、庭園と邸内社、そしてこの離れの茶室が残っています。
拾翠亭の茶室や2階の広間から、5月のそよ風を受けて見る「九条池」の風情は格別です。
 九条家は藤原鎌足を遠祖とする流れを汲み、摂政や関白などの要職に就く人が多く、安土桃山時代には、京都御所の南側に約1万坪の敷地を有する名家でした。

閑院宮
閑院宮
閑院宮(かんいんのみや)家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、この場所に屋敷を構えました。
創建当初の建物は天明の大火(1788年)で消失し、その後再建されたが、現在の建物との関係など詳しいことはわかっていません。
 明治2年(1896年)の東京遷都に伴い閑院宮家が移られた後、華族会館や裁判所として一時使用され、明治16年(1883年)、宮内省京都支所が設置されました。
その後、昭和24年(1949年)に京都御苑が国民公園となり、厚生省のち環境省の京都御苑管理事務所として使用されました。
 平成15年(2003年)11月、保存活用工事に着手、平成18年(2006年)3月竣工。
施設には展示室を備え、京都御苑の自然と歴史について展示を行い、一般に開放しています。
閑院宮邸跡の建物と庭園は当時の面影を今に伝えています。
敷地面積は約9500平方メ-トルあり、築地塀に囲まれています。
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