平成28年12月 わがまち紹介 最高の赤・黄・オレンジ色が待っているまち:大山崎 |
月 日 | 平成28年12月1日(木) | |||||
集合場所 | 阪急電車「大山崎駅」改札出口集合 | 訪問先 | アサヒビール大山崎山荘美術館、宝積寺、他 |
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その他 | 1) 大山崎ふるさとガイドの会の木村さんに丁寧に説明して頂きました。 2) 昼食は「かぎ卯 (かぎう)」で頂きました。 |
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天 候 | 紅葉散策日より | |||||
記
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大山崎町は、京都府乙訓郡の町で大阪府三島郡島本町との府境に位置しています。京都府下で最も面積の小さい町です。河の南という意味で「河陽(かや、かよう)」の別名があります。 丘陵地が平野に近く迫り、そのふもとに桂川、宇治川と木津川の合流点が位置するため、山崎は古来から交通の要地であった。明智光秀を豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が破った山崎の戦いは天王山山麓で行われた。 この故事から雌雄を決することや勝負の分かれ目のことを「天王山を迎える」(または単に「天王山」)と呼ぶ成句が生まれた。 アサヒビール大山崎山荘美術館 アサヒビール大山崎山荘美術館は、天王山の南麓にあります。 「琅かん洞」の手前には夏目漱石が山荘を訪れた際に詠んだ句の碑石があります。 約5500坪の庭園のなか、英国風山荘である本館と安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」、「夢の箱」、その他の建物から構成されています。 美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設されました。
加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜(らんかふ)》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれていきます。 ビールとウイスキーという新たな文化をわが国にもたらした二人が紡いだ時代の糸は、やがて桂川、宇治川、木津川、三つの川が合流するこの大山崎の地でひとつになります。 1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることになりました。 幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上しました。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。
アサヒビール大山崎山荘美術館は、歴史ゆたかな土地に建つ貴重な近代建築と、同時代の先端を行った芸術運動の遺産、そして国際的に活躍する建築家・安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁して、1996年に開館しました。2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼(せいけいろう)[現本館]、彩月庵(さいげつあん)[茶室]、橡ノ木(とちのき)茶屋、栖霞楼(せいかろう)[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅かん洞(ろうかんどう)[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録されました。 開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館として、多くの人に親しまれています。 宝積寺 積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧である。 行基は神亀2年(725年)、淀川に「山崎橋」(山崎−橋本間)を架けている。また、『行基年譜』によれば、行基は天平3年(731年)、乙訓郡山崎に「山崎院」を建立している。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ 田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土している。以上のことから、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もある。 宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995年−999年)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。
11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記「明月記」には建仁2年(1202年)に彼が宝積寺を訪れたことが記されている。 天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。 大正4年(1915年)には夏目漱石が当地を訪れた。漱石は、宝積寺の隣地に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の隣に住んで桜哉」の句を詠んだ。
かぎ卯 (かぎう) 大正元年創業。谷崎潤一郎の小説「蘆刈」にも登場する「かぎ卯」。 山崎から橋本への渡し船に乗る前にうどん屋さんで日本酒を飲み、うどんを食べる場面のことだ。 数年前に店舗改装されて、古くからの町並みとモダンな新しさが同居する建物になった。 その「かぎ卯」は、JR山崎駅を西国街道を13分ほど歩き、サントリー山崎蒸留所前の踏み切りをさらに超えていった所にある。サントリー山崎蒸留所から見ると、駅とは反対方向なので、立地はそんなに良くない、住宅地の方に歩いていき、ちょうど171号線から来た裏道と合流している所にある。ここにはかつては門があったらしい。 新しい建物は、日本家屋のよさを残す窓と壁が、和の雰囲気をかもし出し、前面にはりだした白い壁がモダン色を高めている。山崎という異次元空間を守りつつ、むしろ自らリードしている質の良い建築さ。さらに、大きな「山崎の水で作りました」の茶色ののれんが誇らしげである。 「蘆刈」の一節です。店内に飾ってあります。 "君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみにき" |
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