平成28年8月 わがまち紹介 大阪難読地の一つ"柴島" 柴島浄水場を見学(その1/2) |
月 日 | 平成28年8月10日(水) | |||
集合場所 | 阪急京都線南方駅 改札出口 | 訪問先 | 柴島浄水場 |
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その他 | 柴島浄水場正門で職員の澤田さんが迎え頂きました。 柴島浄水場の全般の説明から場内の現場説明及び休館中の水道記念館の敷地内に入り丁寧に説明をして頂きました。見学後濾過の実験をさせて頂きまました。 本当に長時間にわたり有難う御座いました。 |
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天 候 | 快晴 | |||
記
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「柴島」と書いていったいなんと読むのでしょうか。大阪に数ある難読の地名です。 その名前の由来には4つあるそうです。 説1.「茎島(くきじま)」がなまって「くにじま」に、 西淀川区付近は昔、川の中にあり、難波八十島と呼ばれ、たくさんの島が存在した。 その中の1つに茎島(くきじま)が訛って「くにじま」になったとの説。 説2.「くぬぎ島」か「くにじま」に、 昔この地に葉巻きの原料になる「くぬぎ」が多く生えていたことから「くぬぎ島」が「くにじま」に変化した説 説3.「国島」が「柴島」に変わった 平安時代にはこの付近は、「国島」という地名で、それが「柴島(くにじま)」に変わった説。 説4.漢字が合体して柴島に この地域は、「此木島(このきじま)」と呼ばれていたという、その「此」と「木」が合体して「柴」になった説 柴島(くにじま) 柴島(くにじま)は、淀川の右岸で淀川と神崎川に囲まれた中州になっています。淀川河口付近の中州は、淀川によって運ばれた土砂が堆積してできたもので、難波八十島と呼ばれています。このあたりから淀川河口にかけては島の字のつく地名がたくさんあります。 淀川はこの地に水運や木綿のさらし(柴島晒)などの水利をもたらしました。近代以降は上水道の水源ともなりました。また反対に洪水などの災害ももたらしてきたものと思われます。このような環境にある柴島は、古くから開かれた地で天平時代には摂津の国分尼寺がおかれました。平安時代には柴島荘(アパートではありません、荘園の名前です)が置かれ、室町時代には細川家の居城、柴島城が置かれました。 柴島城址(くにじまじょうし) 大阪市東淀川区柴島2丁目19 十河一政という武将が築城したそうで、天文18年(1549年)の3月、三好長慶が軍勢を引き連れて中島に向かうのを防ごうと、細川晴賢や三好宗三の手兵がこの城を拠点に戦ったが落城、また元和3年(1617年)から6年間知将稲葉紀通が居城し、現在の柴島から南江口までの淀川べりを 治めていたといわれています。 柴島城は、大阪夏の陣までは続いたといわれていますが、いつ廃城になったかは不明です。 柴島2丁目の閑寂な住宅街の一角に「柴島城址」の碑が建てられています。付近には当時の面影は残っていません。
柴島神社 大阪市東淀川区柴島3丁目7ー30 貞永(じょうえい)元年(1232)9月27日に創建で祭神は八幡大神・天照皇大神・春日大神。 社伝では、人皇(じんこう)(神武天皇以後の天皇のこと)87代四条天皇の御宇(ぎょう)(君子が天下を治めている期間)、近国一円が1カ月余りの大雨で大洪水になり、他より3mばかり高地だったこの地に村人たちは避難しました。そこへ柴に乗った小社が流れ着き、その中に前記の三神が祭られていて、その夜人々の夢枕に三神が現れ、この里を守護すると言われこれを祭った謂(いわ)れがあります。柴島(くにじま)地名の起こりは「柴の字を国と読む」「古く難波八十島の一つで茎(くき)島が訛(なま)った」「昔は 柴薪にするクヌギが多い島で訛った」など古代のロマンを感じさせる諸説があります。 法華寺 聖武天皇の勅令により全国に配置された国分尼寺のうち、摂津の国の国分尼寺を引き継いでいる寺だそうです。 境内に は国分尼寺の礎石が置かれています. 柴島浄水場付近に創建されましたが、大正3年(1914年)に浄水場建設のため、現在地に移転しました。
柴島(くにじま)浄水場 明治の初めまで大阪の庶民の生活用水は、淀川の水を汲んで一荷いくらと売り歩いていた「水屋」や井戸水によって賄われていました。 明治18年の大洪水、翌年のコレラ大流行、明治23年の「新町焼け(西区)」の大火で水道を望む声が高まり、明治28年 (1895)に日本で4番目の水源地(浄水場)が桜の宮にできました(大正4年廃止)。 その後人口増加で給水能力不足になったため明治41年〜大正3年 (1914)の6年をかけて東洋一の柴島浄水場が建設された。 さらに続く人口増加で昭和32年・43年に庭窪(にわくぼ)・豊野両浄水場(守口市・寝屋川市)がつくられ、現在は3つの浄水場から一日243万m3の水(明治の約4倍)を約260万人に供給しています。 当時東洋一といわれた「柴島水源地」が大正3年3月に完成しました。その規模は、給水能力(一日に最大送り出すことのできる水量)15万1800立方メートルでした。 市勢の伸展と市域の拡大、人口の増加に伴う水道需要に対応するため9回におよぶ水道拡張事業が行われ、緩速ろ過法から急速ろ過法への転換や水質悪化に伴う 浄水処理の変更など、量的拡張から質的向上まで対応する取水・浄水・配水設備などの改良増設事業が繰り返し行われてきました。 現在は、給水能力118万立方メートルにまで発展し、敷地面積51万平方メートルのなかには配水池やポンプ場、高度浄水処理棟などの設備が配置されていま す。 配水池上部の有効利用として、市民が利用できるテニスコートなども建設されました。また現在は、従来の凝集沈でん・急速ろ過処理にオゾン処理 および粒状活性炭処理を追加した、より安全で良質な水を届るために「高度浄水処理」を実施しています。 隣接する水道記念館の美しい建物や目に鮮やかな広い芝生地帯に、休むことなく安全で良質な水を送り続けてきた水道の歴史が刻まれています。 柴島浄水場は、安全管理が徹底されていて、場内及び館内への出入りは非常に厳しくチェックされています。又場内で働く方々の健康管理も徹底されているようです。
柴島浄水場・水道記念館 柴島駅一帯には広大な敷地の「大阪市営柴島浄水場」があります。淀川の水利の一つです。その淀川べりに赤レンガと 御影石のネオルネッサンス様式の建物があります。 水道記念館は、平成7年11月に大阪市水道通水100周年を記念し、水道の歴史やしくみ、水道水源環境に関する知識の普及啓発を図ることを目的に開設されました。 建物は、大正3年から昭和61年まで大阪市の主力ポンプ場として活用していた、柴島浄水場「旧第1配水ポンプ場」を保存活用したもので、赤レンガと御影石との調和が美しい景観を創り出している建物で、平成11年に国の登録有形文化財に登録されました。 同館は明治の建築家宗兵蔵(そうへいぞう)の設計で、大正3年(1914)に送水ポンプ場として建てられ、平成7年 (1995)に市民に親しまれる「水のミュージアム」として生まれ変わったものです。館内は大きく2つに分かれ、自然と生物たちの右ゾーンと、水道の歴史 の左ゾーン、回廊、図書コーナーなど計36のコーナーと飼育研究棟(110種・3500個体飼育研究)で構成。天然記念物のアユモドキやビワコオオナマズ など琵琶湖淀川水系の淡水魚78種1700尾がパノラマ水槽などで観察できました。水は淀川の水をそのまま利用、説明も魚の採取者が行っていました。 淡水魚関係の研究・水族館は日本には少なく、貴重な記念館です。 しかし、水道記念館は、橋本氏が市長になって、平成24年4月1日から一時休館となり、現在、活用の方向性について決まらず閉館しています。 |