平成28年6月 わがまち紹介 大本山 須磨寺 |
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば、兵庫区和田岬の海中より出現し給える聖観世音菩薩像を安置するために、淳和天皇の勅命により、兵庫区会下山に、恵偈山北峰寺が建立された。 後に、仁和二年(AD886)に、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが、当山の開基と伝えられる。 南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書き継いだ、当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観世音は嘉応元年(AD1169)源頼政が安置したとある。 真言宗須磨寺派の本山「須磨寺」 正式名は上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)であるが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきた。 平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、 さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られている。 古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客 も数多く、広い境内のあちこちに句碑・歌碑が点在している。
平敦盛公は平清盛公の弟平経盛公の子で、従五位に叙せられたが、官職が無かったので世に無官の大夫と言われた。 一の谷合戦で、源氏方の熊谷次郎直実公に討たれる。 平家物語によれば寿永3年2月鵯越えの坂落としにより、平家方が惨敗を喫し、海岸へと味方の船を求め殺到した。 直実も平家方を追って、沖の方 へ馬を泳がせている若い武将を見つけた。 「後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」と呼んだところ、若武者は馬を戻した。 二人は一騎討ちとなり、共に馬か ら落ちて組み合いとなった。 直実が勝って、首を取ろうと相手の顔を見た。 あまりに美しいので、名前を尋ねると、自らは名乗らず、直実に名乗らせた。 その名 前を聞いて「良き名前なり、我が名は誰かに聞けば知っている者もあろう」と言って、首を差し出した。 直実はためらったが、他の味方の兵士が近付くのを見 て、涙をのんで、その若武者の首をはねた。 その時に、若武者の腰の笛に気づいた。 その戦の朝、陣中で聞いた美しい笛の音色は、この若武者のものであったの かと思いいたった。 このことから、直実は、殺し合わねばならない戦の世に無常を感じ、出家を決意することになる(後に熊谷蓮生坊)。 この笛が小枝の笛と呼 ばれる通称青葉の笛である。 一の谷の合戦(地図)の旧跡が残り、当寺は源平の名所として知られている。 往古より青葉の笛は国の重宝であり、松尾芭蕉を始めたくさんの人々が訪れている。 また、謡曲「敦盛」、舞「幸若」にも登場し、歌舞伎、映画、舞台などに大人気で演じられている。
今から八百年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭です。 当時十六歳の無官太夫平敦盛が一の谷の浜辺において、源氏の武将熊谷直実に討たれた話は平家物語の中で最も美しく、最も悲しい物語として古来語り継がれております。 庭前には、「笛の音に波もよりくる須磨の秋」の蕪村句碑があり、庭の角には弁慶が「一枝を伐らば一指を剪るべし」と制札を立てた、歌舞伎「一の谷嫩軍記」にも登場する「若木の桜」があります。 |