わがまち紹介
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平成27年4月 わがまち紹介
"伝統の酒造りと寺内町のまち"
高槻市富田
【その1/2 概要】

月   日 平成27年4月15日(水)
集合場所 小寺池図書館前
順   路 小寺池図書館 → 富田散策 → 富田公民館 (散策路は全て平地です)
その他 1) 小雨決行。
2) 富田公民館 「集会室 1 」で"富田まちなみ・他"のビデオ観賞
3) 終了後、場所を変え「VG槻輪の総会・親睦会」
天   候 晴れ・曇り
 考古学の調査では弥生時代以前よりの台地であり、富田の地名は「屯田(とんでん)」(律令制以前の天皇家の御料田)がこの地に存在したことに由来するとされる。
(富田の筒池に五社水路が4世紀前期には出来ていた言われています)
 平安時代、藤原師輔から息子尋禅に譲られた荘園の中に「富田荘」が見られる。後に天台座主となった尋禅によって比叡山延暦寺領に編入された。後の戦乱で支配権が転々としたらしく、室町時代前期には室町幕府の直轄領となっており、臨済宗普門寺が創建された。
足利義満は妻の実家日野家の日野有光を同荘の代官に任じており、また、同家との関係の深い浄土真宗本願寺7世法主存如が光照寺(現在の本照寺)を創建した。
 寛正の法難で延暦寺によって大谷本願寺を破却された本願寺8世法主蓮如を宥めるために管領細川勝元がこの地に寺地を与えて京都から立ち退かせようとしたが、蓮如が間もなく吉崎御坊に向かったために土地は一時店晒しとなった。後に蓮如が加賀一向一揆を避けて戻ってきた後に富田荘の光照寺に一時滞在し、文明13年(1481年)に教行寺を建立して8男蓮芸を住持とした。
 以後富田は本願寺門徒が集まり、寺内町が形成された。
 富田は長い歴史と寺内町の誇りを持っています。また富田は高槻城(平城)よりもむしろ要塞の地であったことや、富田が川筋から離れた台地の為に水害や地震(一般に台地は沖積地よりも木造建築の場合は地震の揺れが小さい)に、高槻城付近よりも強い等の理由より古い街並みが残ったのではないかと思われます。
 明治以後は明治22年(1889年)4月1日に町村制の施行により単独で自治体を形成して島上郡富田村が発足した。
明治29年(1896年)4月1日からは三島郡に所属。大正14年(1925年)11月1日には町制施行して富田町となり、昭和31年(1956年)に高槻市に合併された。
現在、富田南部には一部に歴史的な街並が残り、普門寺方丈など神社仏閣、酒蔵などの歴史的な建造物が存在します。
 JR摂津富田と阪急富田の駅が近いなどが特徴として挙げられます。
このような事から、VG槻輪は再三訪問していますがいつも新しい発見が有ります。
 平成21年には、VG槻輪の設立5周年記念行事 として、【わがまち学ぼう事業】を実施し、学習&ボランティアの実践として、一般市民150名の応募者を5グループに分けて案内したこともあります。
 富田自治会連合が中心になって、「富田地区 交通まちづくり研究会」を編成し、3部門に別れ その一つ 〜歴史資産を活かして"まちづくり"〜 ではまちづくりの話合いを定例で行われています。
富田のまちづくりの基本理念は、
1)誰もが安全快適に歩けるみちづくり、
2)歴史資源を活かしたまちづくり、
3)駅周辺のにぎわいと活力のあるまちづくり、
ではあるがいつも次の事を考えながらまちづくりの話合いがなされいます。
1)不便でも住み心地がよい、2)都会化を求めない(便利さを求めない)3)住んでいる人の目線で
 JR富田駅の富田芝生線の歩道拡張工事は平成27年度には土地買収も終わり、一部工事も着手されています。
今後少しずつ町が変わって行くと思い、今回「わがまち紹介」を計画し実施しました。
公民館では、"富田のまちなみ"、"富田まちづくり"等の放映をしました。
ここをクリッキして動画もお楽しみ下さい。

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