わがまち紹介
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平成27年2月 わがまち紹介
"嶋上郡衙のまちとして栄えた郡家の村"
郡家本町
【その1/2 概要】

月   日 平成27年2月19日(木)
集合場所 JR高槻駅 北側バス乗り場 D
順   路 JR高槻駅北バス停 → 郡家本郷バス停下車 → 久安寺 → 妙圓寺 → 郡家本町まち並み → 連絡会・会食 → 解散
その他 1)妙圓寺住職の葦名彰先生より長時間にわたり丁寧にわかり易いお話をして頂きました。
 本当にありがとうございました。
2)郡家本町を散策し、会食・連絡会を行い解散しました。
天   候 快晴
郡家地域は地名の発生の時代がほぼ確定されていると思われます。「郡家」という言葉は、奈良期から平安期にかけて、国家的な支配のもと、各国に置かれた郡の役所(郡衙)や郡司、建築群を総称して使われています。
高槻市の郡家は、東に芥川、南に西国街道、西に芥川廃寺(塔心基礎石が素盞嗚尊神社境内にある)、北に式内社である阿久刀神社に囲まれています。
島上郡家は、門や柵で区画された役所地区(嶋上郡衙跡地)、近くの神社・寺(素盞嗚尊神社)地区、集落地区(郡家本町)を含んだ生活圏を作っていたと思われます。
しかし、平安中期から激しさを増す全国的な規模での荘園の増大は、郡の行政単位としての機能を弱体化し、それに伴って古代村落としての郡家も衰退消滅していったと思われます。現在、郡家地区にある寺院は、妙圓寺と久安寺の二ケ寺です。江戸時代にはもう一ケ寺「薬師寺」があったことが絵図や縁起などから確認できるが今はありません。
郡家は、芥川の山城に陣取った三好長慶の采配で、芥川の清流を田に引く権利を得て命綱の水を確保した農村は「郡家極楽」と言われた土地、豊かな水と土に恵まれ、上質の酒米を供給してきました。 郡家本町の集落は、なだらかな坂道に細い生活道路と水路が走り、昔の光景を今に伝える変化に富んだ家並みのまちです。

蘆名山妙圓寺(真宗佛光寺派)
「妙圓寺(みょうえんじ)」は、蘆名山と号して真宗佛光寺派に属し、本尊は阿弥陀如来です。
「郡家御坊」とも称されるこの寺は、寺伝によれば、1469年(文明元年)、郡家の草庵に住していた葦名主計(かずえ)が蓮如上人の摂津国布教の際、剃髪して上人の弟子になったそうです。
『蓮如上人御一代記聞書』には、主計が登場し、ヒゲを剃る間も惜しんで念仏を唱え、手元が狂って傷ばかりつくっているというほど熱心な念仏者として紹介されています。
妙圓寺は、当初御坊山に開創されその後郡家に移転し、後柏原天皇の時(1522年)現在地に移転した。
住職より、お堂の歴史の詳細のお話をしていただき、明治時代には小学校の校舎として使用されたことや、光格天皇からの授かりものの品、各仏像の話、御文の「白骨の章」の草案の話、蓮如上人自刻像の話、冷泉家御歌、教如上人の御手紙など多くの家宝話を長時間に渡り説明をして頂きました。

白華山久安寺(黄檗宗)
寺伝によれば、承応3年(1654年)に臨済宗妙心寺派の龍渓性潜が開基したと伝わる。その後荒廃を繰り返し、地震により本堂が倒壊するが平成5年(1993年)に庫裏と本堂を再建した。

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