わがまち紹介
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平成25年12月 わがまち紹介
優れた建築群・木々に囲まれたキャンパスのまち:吹田市千里山
【その1/2 概要】

月   日 平成25年12月5日(水)
集合場所 :阪急関大前駅 南改札出口
内容 吹田まちあるきの斉藤さんに、わかり易く、丁寧に説明をして頂きました。
午前・午後にわたり、本当に有難う御座いました。
天   候 快晴
 千里山住宅地は、大正時代に大阪府嶋下郡吹田村、現在の大阪府吹田市千里山西1丁目と4丁目から5丁目にかけての地区に建設された日本の田園都市ないしは郊外住宅地の1つ、イギリスの田園都市・レッチワースをモデルにロータリーを中心に直線の街路が放射状に伸び、その延長線上の北部と南部に小さなロータリーを配置し、全体を放射状に構成する設計となっています。
 北大阪電気鉄道(現在の阪急電鉄千里線)の開業(1921年・大正10年)に合わせ、終点の千里山駅前に大規模な住宅地の開発が大阪住宅経営株式会社によって行なわれた。
大阪市内では工業化の進展とともに、大気汚染、騒音などの公害問題が明治後半には早くも深刻化しており、そこへ人口の増加による住環境の悪化、コレラ、ペスト、チフス、肺結核の蔓延が重なり、郡部の地域より平均寿命を下げていた。
 それらを避けるために、郊外への移住の志向が強まっており、同じ大阪府北部の池田、豊中、箕面などで箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が住宅経営で既に成功を収めていたのにもそのような背景があった。
 山岡順太郎(当時の大阪商工会議所の会頭・関西大学第11代学長)は内務省の少壮官僚による日本での田園都市建設の構想を受け、その住宅地のプランを内務省の外郭団体である都市研究会に委託した。
都市研究会から間もなく、20世紀初頭から建設が始まったイギリスの田園都市のレッチワースなどを参考にして、千里山の駅の西側に広がる千里丘陵入口部の緩やかな傾斜地に駅から少し離れてロータリーの花壇のある広場を設け、そこから放射状にのびる街路で構成される青写真が提示され、そのまま実行に移されることとなった。
関西大学
 千里山キャンパスは、1922(大正11)年の千里山学舎建設以来、本学の教学理念に基づく学術振興の拠点としての整備を続け、現在では各学部の学舎棟をはじめ多彩な施設を擁する総面積35万m2に およぶ広大な教育・研究空間へと発展しました。
都心からの交通の便に恵まれながら、千里山の丘陵地に広がる豊かな緑にあふれた立地は、創造性と自由な精神 を育む大学として絶好の教育環境を備えています。
学生が学習・研究に、課外活動に、みずからの可能性をかけて取り組む活気にあふれたキャンパスから、「関大スピリット」ともいうべき自由闊達な気風が育ち、その数々の成果が世界に向けて発信されています。
関西大学博物館(登録有形文化財) 昭和29年、末永雅雄名誉教授が設立した考古学資料室を前身に平成6年4月、博物館相当施設として開館しました。
重要文化財16点、重要美術品12点を含む、約15,000点の考古・歴史・民俗・美術工芸・自然科学等の資料を収蔵しています。
博物館は、関西大学のキャンパスで最も古い建物「簡文館」の2階に位置します。
簡文館は、関西大学の建築物では初めて、「登録有形文化財(建造物)」として登録を受けました。
豊臣期大阪図屏風(復元陶板) この屏風は、オーストリアのグラーツ市にあるエッゲンベルク城(世界遺産)に所蔵されています。
もとは八曲一隻の本間屏風だったと考えられますが、現在は一扇ずつ分解されエッゲンベルク城「日本の間」の壁面にはめ込まれています。
 「豊臣期大坂図屏風」は、遅くとも17世紀後半にはエッゲンベルク家が所有していたことが判明しています。
以降、この屏風は長い間、特別な注目を受ける ことなく過ごしてきました。
バーバラ・カイザー氏(エッゲンベルク城博物館主任学芸員)が修復と調査に着手したのが2000年から2004年にかけてのことです。
修復の過程で日本の屏風らしいということがわかり、カイザー氏から調査依頼を受けたのがフランチィスカ・エームケ教授(ドイツ・ケルン大学/セン ター研究員)でした。
エームケ教授は関西大学の招聘研究者として2006年に来日され、その際に屏風の写真を携えて、「なにわ・大 阪文化遺産学研究センター」を訪れました。
そして「なにわ・大阪文化遺産学研究センター」で調べた結果、現存作例の少ない、豊臣期の大坂城とその城下を描いた屏風であることが確認されました。
高松塚古墳壁画 再現展示室
昭和47(1972)年の高松塚古墳の発掘調査は、明日香村の村史編纂事業として奈良県橿原考古学研究所によって実施された。
この発掘調査は、故網干善教先生(関西大学名誉教授)の指揮のもと関西大学考古学研究室の大学院生や学生が参加して行われた。
 発掘は、3月1日に開始され、18日には深さ3mの盗掘孔の底に石室を発見した。
21日の午前、閉塞石に盗掘の破壊痕を確認し、正午過ぎに網干先生が石室内部を確かめ、日本で初めて彩色壁画を検出した。
新発見の壁画が、考古学的、文化史的に重大な意義をもち、絵画的にも優れていることがマスコミで大々的に報道された結果、全国的な考古学ブームが巻き起こり、レンタサイクルに乗った家族連れやバックパッカーなど、多数の見学者が現地に詰めかけ、飛鳥の史跡巡りが流行するきっかけとなった。
千里山基督教会
1962(昭和37)年に建築され、一部焼失しましたが、1970(昭和45)年に再建されました。
高くそびえる尖塔は千里山の景観の一つになっています。
千里寺(登録有形文化財)
昭和3年(1928年)11月10日に京都御所で行われた、昭和大礼に際して建造された「饗宴場」の建物の一部。
大礼後、関西大学へ移築され、講堂・武道館として使用していたものを、昭和28年(1953年)に譲り受け、再度移築したものです。
当時のシャンデリアが残る立派な建物です。

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