わがまち紹介
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平成25年7月 わがまち紹介
" 七夕の夢を求めて!!" :交野市倉治"
【その1/2 概要】

月   日 平成25年7月7日(日曜日)
集合場所 機物神社 社務所前 集合時間:9:00
順路 機物神社参拝 → 交野市歴史民俗資料展示室
その他 1)機物神社では、VG槻輪の発展の祈祷をして頂き、
   中村宮司さんから機物神社の由来と健康管理について話をして頂きました。
3)歴史民俗資料展示室では、奥野さんが館内の展示品を中心に詳しく説明をして頂きました。
本当に有難う御座いました。
天   候 晴れ
 交野市は大阪府の東北部に位置し、大阪市、京都市及び奈良市への距離がいずも20qのところにあります。生駒山系に属した緑豊かな山地部や多くの渓流、天野川を中心とする平地部など、恵まれた自然と風土に抱かれたこの地方は、古くから、人々に愛され、近畿地方の人類文化が始まった地として、多くの史跡、伝説が残されています。
山地部は風化の進んだ花崗岩からなり、多くの渓流が分布しています。平地部は、洪積層および沖積層からなっています。河川は、天野川を中心とする淀川水系ですが、一部は寝屋川水系にも属しています。また、「かたの」とは「潟野」で水がさしたり、ひいたりする平坦な低地を意味するともいわれています。
「交野」の名称は、和名抄に「加多乃」と読み、その名称の起源については、丘陵と平地が交迭(かたがた)に存するといい、淀川流域の低地からみると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称せられたというが、いずれも明らかでない。
倉 治(くらじ)
 倉治という地名には、どのようないわれ、意味があるのだろうか。
 まずーつは、「くら」とは、岩、岩場、崖(がけ)といった意味がある。交野山は巨岩が居座っている。ふもとから朝日の昇る東を見れば、巨石が朝日の影に なって黒々と、ますます巨大なものに映りはしないだろうか。
また、交野山の西側は断層によって急な崖をなしている。その崖下に発達した集落から付けられた ものだとするもの。
 二つ目は、文字どおりの倉(蔵)の林立する村であったとするものである。古代、津田から倉治、寺にかけて、津田山、交野山、竜王山のふもとにかけて渡来人が多数住んでいた。その中で倉治は機織の技術を持った渡来人が多く住んでいた。壬申の乱(672)が起ったとき、倉治に住む渡来人は天智天皇の皇子、大友皇子に付かないで、天智天皇の弟、大海人皇子に味方した。戦は大海人皇子の勝利に終わり、皇子は即位して天武天皇となった。戦争の功労として天皇は倉治機物(くらじはたもの)の首長に交野忌寸〈かたのいみき)の姓(かばね)を与えた。
それから後、倉治織物一族は大いに栄え、聖武天皇の時代(天平年間、 729〜748)には神宮寺の東、交野山のふもとに開元寺を建立した。
 また、一族の氏神として機物神社を祭った。このように倉治は渡来入によって栄え、彼らの富の宝庫として蔵が立ち並んだところからきた地名と言えよう。
 三つ目は、「日本書記」巻三、神日本磐余彦天皇(神武天皇)の条に「兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)」 の2人の名前が記されている。大箱に入った神武天皇が兄磯城(えしき)という悪い武将を論すために弟磯城(おとしき)を遣わすことになる。その供として兄倉下、弟倉下を連れて行ったというのである。磯城(しき)、倉下(くらじ)は共に地名で、磯城は奈良県の磯城郡で、そこに住む豪族であったし、倉下は交野 郡の倉治で、この兄弟は倉治の豪族であったことが推察できる。この兄弟の名前が地名になったと言われるものである。
機物神社
 機物神社の呼称お及ぴ七夕伝説との結び付きについては、諸説ありますが、一説によると、古代、枚方市「津田」を「秦田」、交野市の「寺」を秦山、「倉治」 を「秦者」と言っていた時代がありました。神社の名称はこの「秦者」の人達が祀る社ということで、「ハタモノの社」が本来の呼び名であったと思われます が、後に、七夕伝説と結ぴ付けられて、「奏」を機織りの「機」に換えて現在の機物神社のイメージ作りが行われたといわれています。
 起源は古く4〜5世紀にあるとも考えられますが、5〜6世紀の頃に秦氏に代表される交易商人によって組織された養蚕布織の技術を持った民が大陸から渡来して、一部の集団が東部山地の麓に定住した時といわれています。
 当時、交野山と太陽の位置関孫で、ある特殊な日に特別な現象が起きることに着目して大陸がら呪詛祭祀の習慣を持ち込んで、祭祀の場を「堂」と言う神堂を設けたのが創まりではないかと言われています。
 特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、機物神社の境内から交野山に重ね合わせた日の出が見られることです。このためにこの場所は特別に神聖視され祝祭の場所となったようです。
 条件が良ければ、冬至前後の数日間は交野山山項に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。
 祠ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。長岡京が当神社の御神体であった交野山の真北に配置されていることが道教的世界観に基づくものであることはよく知られているところです。
 後に和気清麻呂の進言により京都へ遷都し、平安時代を創始した桓武天皇もこの地をしぱしば訪れています。因に現在の境内にある鳥居の内のひとつは交野山と伊勢神宮の両者に向かって参拝できるように設計されています。
 もう少し時代が下がると、室町時代の文明8年に、後土御門天皇の勅により神祇管領のト部兼倶の奉弊に始まるとされています。祭神に出雲系氏族の神の地代 主命や地代主命が弊社に含まれているところを見ますと、軍神としても尊ばれ、元亀・大正・文緑・寛文年間には、信長や光秀・秀吉・家康らによって手厚い庇 護の手が差し延べられたことも記録されてありますが、祭神の起源は、農耕・産業を司るのが本来のありさまで、後世になって七夕伝説と結びついて、手芸・学 間の神としても尊ばれるようになり現在に至っています。
 秦氏一族の定住地には、氏神として「天万千幡比売」「栲幡比売」が祀られていますが、当社では、「天棚機比売大神」「栲機千々比売命大神」となっています。
元は「天棚機千幡栲機千々波比売命」でありましたが、余り長いので機物神社では二つに分けて祭神としたようです。
 最後に、交野が原は奈良時代以前から「渡来人の里」であったということは多くの書物でも語られているところです。渡来人が誰であったかということは興味深いところですが、彼らが道教思想を身につけていたのは確かなようです。尚、「道教と日本の宮都」(高橋徹著)によると"地名の交野を氏とする交野忌寸は『新撰姓氏録』によると「漢人よりいづ」とある。"と紹介されています。
交野市立教育文化会館
交野市立教育文化会館とは、交野市立教育文化会館設置条例に基づき設置されている、大阪府交野市の文化施設である。またその建物は北河内地域で数少ない近代建築であり、登録有形文化財に登録されている。
館内に開設されている歴史民俗資料展示室には、交野市内で発掘された考古資料や近世から近代に掛けて使われていた民具が展示され、隣接地には交野市立倉治図書館が設置されている。
交野市立教育文化会館の建物は、1929年(昭和4年)に交野無尽金融(現近畿大阪銀行の前身の一つ)の本社社屋として建築された。
西洋の中世城郭風の外観を持ち、北東角には三層の塔を持っている。
屋上はパラペットの装飾が施されており、外壁はスクラッチタイル貼りである。平成19年12月5日、登録有形文化財として登録された。
歴史 [編集]
" 1929年 - 交野無尽金融株式会社の本社社屋として建築される
" 1942年 - 近畿無尽金融への合併に際して交野町へ寄贈され交野町庁舎となる
" 1970年 - 交野町庁舎の移転により交野市立教育文化会館となる
" 2004年 - 交野市歴史民俗資料展示室を開設する
" 2007年 - 登録有形文化財に登録される

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