わがまち紹介
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平成25年3月 わがまち紹介
日本の優秀な鋳物技術と、古い生活がわかる
旧田中家鋳物民俗資料館:枚方市(王仁公園内)

【その1/2 写真集】

月   日 平成25年3月21日(第3木曜日)
集合場所 旧田中家鋳物民俗資料館(藤阪天神町5-1)  集合:13:15
枚方市駅からバスで行く場合は、
枚方市駅南口1番乗り場:12:44出発 京阪バス63・64系統
(枚方市駅南口〜長尾駅)「藤阪」下車、東へ徒歩5分
順 路 旧田中家鋳物民俗資料館 → 王仁公園/王仁墓/山田池公園 → 解散
その他 (1) 旧田中家鋳物民俗資料館では、学芸員の武知邦博先生に、非常に詳しく、わかりやすく、説明委をして頂きました。
   本当に有難う御座いました。
(2) 枚方市 旧田中家鋳物民俗資料館のホームページは、はこちらからどうぞ!!
天   候 快晴
鋳物の歴史を伝える、全国でも珍しい資料館です。
鋳物資料館  古くから鋳物業を営んだ田中家の鋳物工場と主屋を枚方上之町から移築・復元した資料館です。
田中家は、江戸時代には北河内で唯一、正式に営業を許可され、近隣の 人々が日常生活に使う鍋・釜や農具、寺院の梵鐘等を鋳造を行い、北河内地域を独占的な営業圏としてきた、真継家配下の鋳物師です。
 同家は長きにわたって鋳物業を営んでいましたが、昭和40年(1965)頃には廃業し、鋳物工場と、隣接する住宅(主屋)を枚方市に寄付されました。これらは、江戸時代中期に建築されたと考えられており、江戸時代の鋳物工場の姿を現在に残す、国内でただ一つの建物です。
 枚方市は、両棟を王仁公園の一角である現在地に移築・復元し、昭和59年(1984)に「枚方市立旧田中家鋳物俗資料館」として開館しました。
 工場内には鋳造の歴史や製作の道具類と田中家の歴史を、住宅内には枚方の伝統的な生活用具を展示しています。
 また、敷地内には枚方市内で発掘された弥生時代の竪穴住居跡、復元竪穴住居もあわせて展示しています。
1.旧田中家鋳物民俗資料館(枚方市藤阪天神町5ー1)
弥生時代の住居 1)弥生時代の移築住居跡
長尾西遺跡で発掘された弥生時代後期の実物之住居跡です。方形住居の約半分をとどめるだけですが、炭化材が残っていたため、地面から切り取って移設しました。
弥生時代の住居 2)弥生時代の復元住居
田口山遺跡で発掘された弥生時代中期の竪穴住居跡をモデルに復元しました。

鋳物工場 3)田中家鋳物工場(大阪府指定有形文化財)
江戸時代の貴重な鋳物工場です。鋳物業は溶解した金属を、鋳型に流し込んで製品を作る仕事です。
屋内が高温にまるので、細長い建物の土壁に多数の格子窓を規則的に配して、通風しをよくしています。また本瓦屋根の中央にはこきき炉の熱気を逃がすために、風袋を設けています。
館内は当時使用されていた、こしき炉(溶解炉)や踏鞴(たたら)その他鋳物の歴史や優品をパネルで紹介するコーナーや、この工場で操業していた田中家の歴史を展示するコーナー、また、現代の鋳物を紹介するコーナーがあり多く展示されています。
こしき炉(溶解炉)
金属を溶かすための炉で、鉄芯を入れた粘土で作られています。中に燃料となる炭と地金を入れ、踏鞴から風を送り金属を溶かしました。溶けた金属は下に溜まり湯口というあなから流し出します。こしき炉は高温になるので、上部には熱を逃す風袋が建物に設けられています。
踏鞴(たたら)
鋳物工場では踏鞴を使って風を送ることで、炉内の温度をあげていました。踏鞴の踏板の両端をシーソーのように交互に踏む単純な労働を、数時間以上続けました。

弥生時代の住居 4)旧田中家住宅 (大阪府指定有形文化財)
元文4年(1739)に梵鐘を鋳造したときの祈祷札がうたれていたので、その頃にたてられたようです。炎を扱う鋳物工場に隣接しているので、防火のために屋根は瓦葺です。
鋳物師という珍しい職種の主屋ですが、間取りなどは、大きな土間に4つの部屋という、周辺の民家と変わらない「田の字つくり」となっています。
主屋の土間には炊事場があり、煮炊きといった調理はカマドで行いました。
資料館の周辺地域では、燃料にシバ(枝)・コクソ(松葉)・ワラなどが用いられました。
土間に中二階の部屋があり、移動ハシゴで部屋に出入りしていたようです。この部屋はお米など貯蔵するには良いと思って名ですが、そのほかに、姑ののぞき部屋とか使用人の部屋などにも使われたと聞くとおどろかされました。
王仁公園(わにこうえん)(枚方市王仁公園1−1)
枚方市が管理する公園の中では、一番広い公園です。
プール(夏期)、テニスコート、バレーボールコート、運動広場の有料施設や芝生広場があり、多くの市民に親しまれています。
公園内に王仁公園新池釣センターがあります。

菅原神社(すがはらじんじゃ)(枚方市長尾宮前1丁目12?1)
寛永二十年(1643)、領主の久貝因幡守正俊は、家臣の細谷善兵衛に命じて八田川の川筋で当時八田広と呼ばれた荒地を開梱させ、新田開発を行った。
新田は開墾の翌年に福岡村と名付けられたが、貞享三年(1686)に長尾村と改称された。
菅原神社は、慶安三年(1650)に正俊の子正世が、長岡天神の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりとされている。
祭神は菅原道真で、社殿は文化四年(1807)の再建であるという。

王仁墓(枚方市藤阪東町2丁目)・・「漢字」が生んだ日韓歴史交流の拠点
4世紀末に朝鮮半島から日本に漢字と儒教を伝えたという王仁 (わに)の墓とされています。
禁野村和田寺の僧・道俊が『王仁墳廟来朝記』の中で、藤坂村の鬼墓は王仁墓のなまったものと主張し、京都の儒者・並河誠所が この書物をもとに王仁博士の墓として崇拝するよう地元の領主に進言し、享保16(1731)年に「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建てたことが始まりで、昭 和13年に大阪府の史跡に指定されました。
市は、王仁博士の生誕地とされる韓国霊岩郡と20年以上にわたって市民レベルで交流。
地元の市民グルー プが中心となって王仁塚周辺の清掃やお祭りの開催、交流に力を入れてきたほか、地元の菅原東小学校では霊岩郡の初等学校と壁新聞の交換を行ってきました。
こうした取り組みが実を結び、平成20年には市と霊岩郡との友好都市提携が実現。
歴史文化を中心に交流を深めています。
現在、韓国からは修学旅行生が訪れ るなど、伝王仁墓は日韓交流の拠点の一つとして位置付けられています。

山田池公園(枚方市山田池公園1-1)
枚方市にある大阪府営の公園である。枚方市東部方面の丘陵地帯に設けられており、園の北部に存する山田池が公園の名前の由来である。
ジョギングコースやバーベキュー広場、春日山、展望広場などがある。「山田池の月」は枚方八景に選ばれている。又、この公園は駅伝大会等に使用されることもある。
園のほぼ中心を市道が北西から南東へ走り園を二分している。山田池のある地区は樹木が多く、散策路が整備されている。対して市道の南側は芝の植生された広場が中心である。

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