わがまち紹介
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平成24年12月 わがまち紹介
" 障子しめて四方の紅葉を感じをり ":大山崎の寺・山荘
月 日
平成24年12月6日(木曜日)
集合場所
阪急大山崎駅改札出口 10:20集合
順 路
阪急大山崎駅 → バス → 山荘美術館 → 徒歩 → 宝積寺(宝寺) → 参拝 → 山荘へ散策 → レストハウス(休憩) → 庭園散策 → バスor徒歩 → JR山崎駅
その他
(1) 一般参加者歓迎です。
(VG槻輪の会員を通じて参加申し込む)
(2) お弁当持参下さい。(レストハウスで食事)
(3) 大山崎ふるさとガイドの会 市川 孟 様の親切丁寧な説明をして頂きました。
本当に有難う御座いました。
米下記の写真をクリックして頂くと別の写真が見られます。
天 候
晴
記
大山崎町は、京都府下で最も面積の小さい町です。旧山城国乙訓郡。南に向かった河有りという意味で「河陽(かや、かよう)の別名があります。
「河陽」※1 下記に詳細に説明しています。
丘陵地が平野に近く迫り、そのふもとに桂川と宇治川・木津川の合流点が位置するため、山崎は古来から交通の要地であった。明智光秀を豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が破った山崎の戦いは天王山山麓で行われた。この故事から雌雄を決することや勝負の分かれ目のことを「天王山を迎える」(または単に「天王山」)と呼ぶ成句が生まれた。
大阪府の島本町山崎から京都府の大山崎町にかけての山崎の地はまた名水で知られている。日本における製油発祥の地である離宮八幡宮には石清水(いわしみず)の名の元となった湧き水があった。また山崎駅前の妙喜庵の茶室待庵(国宝)は千利休独特の構想で建てられ、現存する草庵風茶室としては日本最古のもので、千利休の遺構として唯一のものと考えられています。
大山崎には、今までに2回(平成18年(2006)8月17日:自然と史跡の探訪、平成20年(2008)11月20日:天下分け目の天王山)訪問しています。今回は、国の指定文化財や重要文化財の多い宝積寺(宝寺)の本殿にて参拝し、晩秋の山崎の散策をします。
天王山城(てんのうざんじょう) 【別名:宝寺城・山崎城】
「財寺城」、「宝寺城」、「天王山城」と呼ばれていた。
JR山崎駅を出て右に道があり 踏切を渡ります。渡ってまっすぐに坂道を登ると宝積寺(宝寺)に至ります。この宝積寺より遊歩道を徒歩にて1.1Kmで山頂です。途中、山崎の合戦時の豊臣方旗立て松などもある。本丸までは案内板が整備されています。
豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を破り、天下統一と大阪城へ移るまで居城とした城です。
勝利者となった秀吉は、取り急ぎ天王山山頂に城を築き、ここを拠点に天下統一へと乗り出してゆく。標高270.4mの頂きに築かれた城は天守閣も備えた本格的なもので、「財寺城」とも呼ばれていた。二年ほどで城は取り壊され、秀吉は大阪へと行った。
別名「天王山宝寺城」や「天王山城」とも呼ばれている。
山頂に本丸があり、礎石が多く認められます。西の一段下がった場所が二の丸。二の丸の南側に井戸跡があり、そのまた南側は竹藪となつているものの、多くの郭跡が認められます。ところどころに石垣が残ります。他に空堀、土塁もあり、規模の大きさを知る事ができます。
旗立松は、山崎合戦の際に、秀吉が馬印を立てて全軍を指揮したといわれる場所です。展望台に上ると、古戦場を見下ろすことができます。両軍の配置図も設置してあります。さらに登ると広場には幕末の「十七烈士の墓」があります。禁門の変で敗れた真木和泉守以下十七名の志士の墓です。さらに登ると酒解神社です。酒解神社は立派な本殿と重要文化財の神輿庫があります。この上辺りから城域で山頂に至ります。
※天王山城跡地は、2008年11月20日「わがまち紹介」で訪問していますので右の写真をクリックして頂くと詳細に説明しています。
宝積寺(通称 宝寺)
京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は天王山または銭原山(古くは補陀洛山といった)、本尊は十一面観音である。
奈良時代に聖武天皇の勅願により僧・行基が724年に開いたとされる真言宗の寺院。通称「宝寺」といいます。鎌倉時代の傑作といわれる本尊の十一面観音像をはじめ 閻魔王と眷属御影など寺宝が多い。参道沿いの三重塔は羽柴秀吉が山崎の合戦の際に一夜にして建てたといわれ、美しい桃山建築様式を今に伝える。 聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺ともいう。
宝積寺は貞永元年(1232年)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995年−999年)、寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。
11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記「明月記」には建仁2年(1202年)に彼が宝積寺を訪れたことが記されている。
天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地がおかれた。
漱石の句碑
文豪の夏目漱石が百年近く前に、京都府大山崎町の大山崎山荘を訪れたのを機に詠んだ句を刻んだ記念碑が、同山荘をリニューアルしたアサヒビール大山崎山荘美 術館の敷地内に、大山崎ふるさとガイドの会の方々によって設置された。
当時の記録によると、漱石と加賀は祇園の料亭のおかみ、磯田多佳を介して出会った。漱石が加賀の招きで建設中の山荘へ出掛けたのは1915(大正4)年4月。病気療養のため京都に長期滞在していた最終日だった。漱石は翌16年12月に亡くなっている。
アサヒビール大山崎山荘美術館
天王山の中腹に位置し、木津・宇治・桂川の三川を望む「大山崎山荘」。 美術館は、大正から昭和初期 にかけて加賀正太郎によって建築された「大山崎山荘」(登録有形文化財)を本館として、建築家・安藤忠雄設計による地中館(1995年竣工)、山手館 (2012年竣工)とともに公開されています。
本館では、民藝運動に参加した河井ェ次郎、濱田庄司、バーナード・リーチの作品を中心に、古陶磁、家具、染色作品などを、地中館では印象派のクロード・モネの代表作として知られる《睡蓮》の連作を展示しています。2012年には新たに山手館を加えて、年に数回の企画展や、地域と連携したイベントを随時開催 しています。
また、約5,500坪の敷地面積を有する庭園には数多くの植物が配され、四季折々に眼を楽しませてくれます。秋の庭園は、山崎の紅葉の名所としても紹介されています。
加賀正太郎が別荘を建てようと、1911年6月に木津、宇治、桂の三川が合流する天王山麓に土地を購入したのが、山荘の始まりです。
加賀自らが設計し、1917年までには木造の洋館を完成させました。山荘建設にあたり、「白雲楼」と呼ばれた塔屋をまず山側に建てています。この塔の上から加賀が工事を指揮したといわれております。
2期工事は、1927〜1932年で、1932年の完成と聞いております。
山荘は1967年に加賀の手を離れ、所有者は転々と移りました。
1990年頃、持ち主である不動産会社が山荘を取り壊し、マンションを建設する計画が持ち上がり、地元住民から強い反対運動が起こりました。京都府から保存について協力の依頼を受けたアサヒ ビ−ル社は、加賀がニッカウヰスキ−の設立にも参加しており、アサヒビ−ル社と浅からぬ縁もあることから、天王山麓の景観を保全するために山荘を買い上げることになりました。
荒廃寸前だった山荘は、京都府、大山崎町の協力も得て、1996年に美術館として見事に蘇ったのです。
※1 「河陽」の追記説明
1) 離宮八幡宮が嵯峨天皇の離宮の故地にあるので、「河陽離宮」との石碑があります。
嵯峨天皇が文華秀麗集の中で、山崎を中国の河陽と見なして詠んだ漢詩があります。河陽は花に満ち溢れた地であったそうですが、そこは河南省孟県のあたりで、黄河の北岸にあると聞いております。
2) 菅原道真が、「河陽の駅」で詠った漢詩
『菅家文草』03:237/『扶桑集』07:003
到河陽駅、有感而泣 河陽( かやう)駅に到り、感有りて泣く
去歳故人王府君 去(い)んぬる歳 故人王府君( ふくん)
駅楼執手泣相分 駅楼に手を執(と)り 泣きて相分かれつ
我今到此問亭吏 我今此(ここ)に到り 亭吏(ていり )に問へば
為報向来一点墳 為(ため)に報ず 向来(きやうらい)一点の墳(はか)を
仁和3(887)年秋、赴任先の讃岐から一時帰京する道すがら作った詩。
口語訳
山崎駅に着き、思うところあって泣く
昨年 友人の王府君(山城守興我王殿)は
駅の物見台で(私の)手を取り 泣いて別れた
私は今(再び)この地に到り 駅の役人に(彼の所在を)尋ねれば
(ここですと)教えてくれたのは 最近(土を盛ったばかり)の一つの墓だった
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