わがまち紹介
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平成24年11月 わがまち紹介
" 先人の息吹に触れる場所 ":旧山田村(吹田市)

月   日 平成24年11月15日(木曜日)
集合場所 阪急山田駅改札出口 9:00集合
順路 阪急山田駅東出口 → 王子池 → 三辻道標 → 山田上愛宕神社 → 石仏群 → 正業寺 → 宗名寺 → 旧竹中邸馬上門 → 紫雲寺 → 安養寺 → 山田伊射奈岐神社 → 円照寺 → 光源寺 → 万博記念公園駅/阪急山田駅
  (昼食は健康の森)
その他 1)当日の天気等によりルートを変更することが有ります。
2)紫雲寺では本殿を参拝する予定です。(拝観料は会でまとめて支払います)
3)「吹田まちの案内人」の古谷啓伸さんにガイドして頂きました。
天   候
次の文字をクリックして頂くと " 先人の息吹に触れる場所 "の動画が見られます。
吹田の広域を占める"旧山田村"には、古くは平安時代から江戸時代に栄えた神社が数多くあり、昔ながらの立派な旧家に蔵が沢山並びやさしく迎えてくれるまちです。
山田駅の南東には、今も昔ながらの家屋が立ち並ぶ、旧山田村の地域です。
ちょっと北には、万博記念公園が在り、まわリはマンション群があり中々不思議な所です。
旧山田村の路地が入り組んでいて、軽自動車でも行き止まり、徒歩での散策が一番です。
情緒ある町並みや道をはさんで向かい合せにお寺がある神社仏閣のまちです。
古くから「山田千軒、吹田千軒」といわれ繁栄し、人口が多く、細かく分けられた字ごとにお寺が作られています。
旧山田村(1955年まで山田村)は、大阪万博が来るまでは静かな農村で、万博公園も山田村に属しています。
この地区は最高級品「山田の銀筍」と呼ばれる筍の産地で現在もわずかにその名残をとどめる竹藪が見られます。

王子池
王子池の周りをぐるっと一周する遊歩道を整備した公園です。
遊歩道のみで遊具はありません。
ところどころにベンチが設置されています。

山田三ツ辻道標
この道標は、昔の山田村の中で一つになっていた山田街道と小野原街道が分かれるところに建てられていました。
左(山田街道)へ行くと上新田、岡町(豊中市)や昔の伊丹村に通じ、右(小野原街道)へ進むと西国街道(国道171号線;筆者注)やいろいろな宗派の由緒 ある寺院へ参詣する道と結ばれていました。
この道標は、山田村と他の地域との交流、人々の生活と信仰の様子を伝える貴重な文化財です。
なお、本道標は平成2年の府道拡張工事の際、保存のために元の位置から北西へ16.82m移動させています。
道標に刻まれている文字は、次のようになっている。
    をの原   みのを          上新田村
(右) かちを寺  いけだ      (左) をか町
    妙見山   中山寺          いたみ

山田上愛宕神社<やまだかみ あたごじんじゃ>
雷神を祀り、防火の守護神とする愛宕神社です。
見晴らしの良い高台に位置しています。
現在ではマンションに囲まれているので、よほど注意しないと見過ごしてしまいます。
石仏群
15体の石仏が並ぶ珍しい光景
法林寺の跡

宗名寺・正業寺
浄土真宗本願寺派のお寺
親鸞上人の大きな銅像がある。

山田城
吹田市にあったとされる山田城には、13もの支城があったそうです。
城名  :山田城
城主  :香西玄蕃
場所  :大阪府吹田市山田東2丁目
形式  :山城
時代  :南北朝時代か
遺構  :まだ発見されていない
城下の名残だと思われる町を散策してみましょう。

圓照寺<えんしょうじ>
寺伝によれば、仁寿3年(853年)文徳天皇の勅により慈覚大師円仁が草創。
観世音菩薩は文徳天皇の念持仏と伝え、貞観12年に清和天皇が行幸されて秘仏と定める。
元慶6年には陽成天皇が病気回復を祈願し、日光・月光の脇士を寄進したという。
寛平6年(894年)宇多天皇の勅命により、醍醐寺の聖宝理源大師が入寺。
不動・毘沙門二天を護摩堂に安置。
これより真言の道場となる。
寺坊は山田全域に建てられ、円実坊・十地坊など十余の僧坊があり、観音堂・奥院に奉仕していた。
応仁の頃(1467年〜1469年)細川氏の家臣、香西玄蕃が山田庄中村に一城を構え寺領を横奪し伽藍を破壊。
円実坊阿闍梨覚玄が残った諸仏像を草堂に祀り、一村本願寺顕如に帰依した時期も小堂に諸仏を安置されていた。
ようやく、万治年間(1658年〜1661年)に法仰覚祐が領主板倉阿波守の助力で再建する。
平成8年(1996年)、鐘楼・地蔵堂・観音堂を新築される。

紫雲寺<しうんじ>
亥の子谷から徒歩15分程の吹田市山田東2丁目に、浄土真宗本願寺派の光明山紫雲寺がある。
紫雲寺は元(はじめ)法相宗。
神亀4年(西暦727年、吹田市立博物館作成の資料では神亀5年)に行基が建立したもので、紫雲山永安寺と称した。
建立場所 は、山田中徳谷(現、津雲台2丁目)山上。
永禄2年(西暦1559年)に永安寺第31世法忍が浄土真宗本願寺第11世顕如上人に順化し、自身の所有していた現在地(山田城跡)に浄土真宗本願寺派の光明山紫雲寺を建立した。
墓石の移転に伴い、永安寺の聖地である尼塚(安磨塚、阪急千里線の南千里トンネル)から平安時代後期(西暦898年頃)の埋蔵とされる瓦経(末法世の到来を畏れ、瓦に記した経文)、天文22年(西暦1553年)と永禄5年(西暦1563年)の供養塔断片が発掘された。
いずれも現在、紫雲寺蔵。
紫雲寺内陣は、森祖仙(還暦を迎え、森狙仙と号す)筆の鳥獣図(82面)で埋め尽くされている。
森狙仙(1747〜1821)は、大坂に生まれ大坂に没した町人絵師である。
名は守象、字は叔牙と称す。
パターンを踏襲するだけの狩野派に飽き足らず、長崎で洋画の手法を学び、円山応挙とともに写生画を確立した。
日本画に近代を開いた一人と言われる。
内陣の格子天井78面には浄土三部経の極楽浄土を描くべく、当時千里丘陵から淀川水域に生息していた野鳥や小動物を描いている。
絵の制作年代は、安永2年(西暦1773年)寺社奉行に提出された寺院修復願(控)によると、森祖仙27歳頃と思われる。
画の大多数が鳥で他に猿、竜、兎、亀、鳳凰などが描かれています。
内陣左右の金碧壁画を含めて大阪府指定文化財になっています。

安養寺
1589年に創設された浄土真宗のお寺で、春の桜から始まり、新緑、アジサイ、秋の紅葉に冬のみかんの黄色い実と、四季折々の草花が私達の目を楽しませてくれます。
また、江戸時代後期から寺子屋が開かれていました。
その後学制が配布されると小学校の敷地内で開校され、本堂で開校式が行われた。

伊射奈岐神社<いざなぎじんじゃ>
延喜式内社で、延喜式神明帳に「摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々」とあり、うち一座がこの神社です。
雄略天皇の代に伊勢神宮の斎宮である皇女・倭姫の 示教によって岡本豊足彦が五柱の皇大神を奉祀する地を探し求め、付近の小川谷の地に祀ったといわれています。
本殿は五間社流造で見事な彫り物があり、境内 の樹木とともに良い景観を作っています。
伊射奈岐神社太鼓神輿(いざなぎじんじゃたいこみこしじゅんこう)は、伊射奈岐神社の秋祭りで「乗り子」を太鼓に乗せて地区内を巡幸します。
「乗り子」自身と衣装が神聖な存在で太鼓に乗り降りするときは、地面に足が触れないよう大人の肩にのせられて移動します。
勇壮な衣装や宮入り後に行われる 神木を中心にして力を競い合う「きあたり」という神事が行われます。
平成10年(1998年)吹田市の無形民俗文化財に登録されています.

旧竹中家「馬上門」<ばじょうもん>
石組みの水路と松並木を前面に配し、石橋を渡って入るように扉を開くこの門は、江戸時代に山田中村の庄屋をつとめた竹中家の表門です。
かつて、ここで時代劇のロケが行われたというほど、近世の庄屋屋敷の整った景観が見られました。
また、この門は、騎馬のまま出入りしたという謂れや、それほど丈が高く大きな門であるということから、親しみを込めて「ばじょうもん(馬上門)」と呼ばれてきました。
門の形式としては、吹田市域の庄屋層の屋敷に設けられた長屋門の一種で、19世紀後半(幕末期)の建築と考えられます。
切妻造・本瓦葺とする門の脇には、 桟瓦葺で別屋根にした長大な長屋が溝側へ約2m張り出して建て継がれ、その反対側には瀟洒な二階建ての離れ(大正時代に他所より移築)が接続されていまし た。
当初の構成は不明ですが、門に長屋を附属させて屋根を架ける長屋門が一般的である吹田市域で、別屋根とし、しかも長屋部分をはみ出させる構造を採る竹中家長屋門は稀なものの一つでした。
市内でも有数の高さをもつこの門は、石組みの小路や松並木とともに、近世の庄屋屋敷の一端を伝えています。


山田川
上は阪急千里線北千里駅の南付近の上流部。
千里丘陵を切って作られた、整然とした造成地の中を流れる。
川相は三面張りで、深い谷を刻む。
よく手入れされた並木と街路樹が沿う。
山田川上流部に入る流れのひとつは、大阪大学の建つ丘の溜池から来る。
この川は池から出たあと、山田丘と藤白台の境をなして流れ万博公園の西で山田川左岸に入る。
川沿いにある古社・伊射奈岐神社は伊勢山田の郡から勧請された祖神を祀る。
摂津市を流れる下流部は、天井川となる。
周囲は建て込んだ宅地、川相は三面張り。
天井川ながら涸れ川ではなく周年流水が見られる

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