わがまち紹介
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平成24年6月 わがまち紹介
"日本食に欠かせない豆腐と蒟蒻を知ろう"旧田中村(茨木市)

月   日 平成24年6月21日(木曜日)
集合場所 茨木市田中町伏見屋の駐車場
その他 1)当日は、雨で旧田中村の散策を中止しました。
2)伏見屋の工場見学。
3)工場の案内は、伏見屋の島倉厚子さんが丁寧にして下さいました。
天   候
 現在の茨木市田中町は住宅地になっていますが、明治時代は茨木北市場といわれ、食品、衣料、雑貨などいろいろな商品の卸売や小売店舗、旅籠や料理屋などが林立する商業集積地として活況を呈していた地域です。
 田中村の中央を通る旧街道とJR京都線の交差に煉瓦作りのガードがあります。
明治時代初期、京都〜大阪間に鉄道が開通した時にできたもので、「田中の丸また」と呼ばれています。
このガードの際に伏見屋の工場があります。
天満宮の周辺は、昔の町並みの面影を残しているが、鉄筋中層マンションなどもあり、そのアンバランスが面白い。
田中町を北進していくと、茨木川の堤に突き当る。上った所に安威川・茨木川合流地点の石碑があります。
安威川・茨木川合流の碑
 茨木川は茨木市北部の山地部分から中央部を安威川と並行して貫流し、旧三宅村(摂津市)で合流していました。昔は川幅が甚だしく狭いうえ天井川で、しかも堤防の上質が軟弱なため洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流はんらんの災害を起こしてきました。
 合流点以南の区間は、昭和24年廃川となり、現在は元茨木川緑地として整備されております。昔からたびたび洪水に悩み、懸命に対応してきた先人の賢明さと粘り強さを知り、洪水に対する先人たちの労苦に感謝し、その功績を顕彰し、また後世に引き継いでいくため、ここに合流由来碑が建立されました。
旧田中村
 田中村には天満宮と寺院光得寺が存し、一ケ村、一宮・一寺の慣例に従った村の構成で現在に至っている。
昌泰4年(901年)1月25日、菅原時平の謀略により九州大宰府に左遷され、都落ちした菅原道眞がその途中、宿泊した跡に現天満宮が建てられたと伝わる。
菅原道眞が都を離れるときに詠んだ和歌『東風(こち)吹かば 匂(にほひ)おこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春なわすれそ』は今も人々の心に残る。
田中天満宮宮司久角(ひさずみ)家の息女でホトトギス同人である堀恭子さんが菅原道眞に思いをはせた句碑『大前へ 一直線に 東風かよふ』が社内に立っている。

天満宮
来社は春日神社です。一の鳥居から石畳の長い参道の両側には梅の古木の並木があり、雪洞のマークも梅模様がついています。
社内の敷地もまずまずの広さで、入り口には大きな古木の桜が有ります。(4月の上旬にはきれいな桜が咲きます)
一の鳥居と常夜燈は立派で明治時代に建立されたと記しいています。
本殿の前には1対の石の狛牛があります。
菅原道眞は、承和12年(845年)乙丑(きのとうし)の歳に、生まれたことと、大宰府で没後、その遺骸は都府楼の北東(うしとら)の方向へ向かって進み、牛車の止まったところに葬られた。(太宰府天満宮の始まり)
また、天神信仰が初め農耕神として発展したことや、当時牛が農耕のシンボル的存在だったことも大きく関係している。
自分の身体と同じ神牛の部分を祈念を込めて、撫でさすれば身体健全はもとより病気全快するといわれ、また神牛の頭部を同じように撫でさすれば、知恵が付くという信仰がある。
道眞は日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家であり、特に漢詩に優れたといわれる。

光得寺 西島山光得寺
応仁の乱(1467〜1477年)をのがれ京都から田中村に至った公家の四条鷲尾隆智(しじょうわしおたかとも)が隠棲(いんせい)して西島吉右衛門と名乗っていた。
その様な折、枚方出口の光善寺に坊を構え高槻富田御坊を足場として教化を行っていた本願寺第八世の蓮如上人を拝して痛く感悟(かんご)し剃髪(ていはつ)の上、帰依得度した。その際、蓮如上人の長男である順如上人(1442 年〜1483 年 順如は父蓮如上人より早く病死したため弟の実如が本願寺第九世を継いだ)の【順】を下賜(かし)され法名に順智を拝し、文明8 年(1476 年)、私財をもって光得寺を建立した。それ以来、光得寺の住職は必ず【順】を法名に用いている。その後、文政5 年(1822年)、光得寺第十四世住職順證が本堂、庫裏、楼門を再建、現在に至っている。
伏見屋
 伏見屋のはじまりは、古く江戸時代までさかのぼります。
京都の伏見から来た、屋号を「伏見屋」と名乗る「こんにゃく屋」が、高槻市富田町にある本照寺の門前で商いを始めたことがはじまりです。その後、伏見屋は明治24年に本照寺の門前から茨木市田中町に移り現在に至っています。
 茨木に移って来た時の当主、上田鹿之助元吉の代から現在まで5代に亘り、こんにゃく、豆腐づくりに専念してこられました。
豆腐工場の周辺は、今は緑地帯となっていますが茨木川(元)の一番上流に当り、ゆたかな伏流水に恵まれた場所で、昔は染物屋や造り酒屋など、きれいな水を多く必要とするお店が軒を並べていました。
浅井戸からは、今も当時のままのおいしい水が湧き出ています。現在では、さらに水質の良い地下85mからくみ上げた水で豆腐を作っておられます。
こんにゃくや豆腐は他の食品のように明らかな味の違いがわかりにくい食材です。歯ざわり、風味、香りなど個々に見るとそれぞれ違いはあるのですが、それはわずかな違いでしかありません。そのわずかな違いを求めて、厳選国産大豆(佐賀県・滋賀県・石川県)・厳選国産こんにゃく芋など材料にこだわり、水にこだわり、品質管理にこだわり、「伏見屋の商品はちょっと違うね」の一言に向け、様々な試行錯誤を繰り返して来られたとのことです。
伏見屋の百十余年は、この「わずかな違い」を求めての百十余年であったとのこと。
こんにゃく
 こんにゃくは、サトイモ科で多年草です。5年に一度花をつけるそうです。
こんにゃくは6世紀中ごろに日本に伝えられたといわれ、江戸時代にはおでん、田楽をはじめとして、物見遊山の食膳には欠かせない食材として珍重されました。 いま日本で「こんにゃく」と呼ばれる食品は、広く全国で日常的に食べられている。おでんや煮物に用いられるほか、刺身やステーキのようにして食べる料理法も考案されている。
豆腐
 豆腐の歴史は非常に古く、約二千年前に中国で考え出されたものだとされています。その頃の中国は「漢」という時代で、当時の准南王劉安により発明されたという説が有力です。三国志にも登場する項羽と劉邦は有名ですが、その劉邦の孫が劉安です。この説には不確かな部分があり、正式な記録は残っていませんが、現在はこの説が有力だとされています。

店内で商品の説明を聞く

見学後の試食(豆腐・こんにゃくの品々)

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