わがまち紹介
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平成23年9月 わがまち紹介
" 木々の間に樟葉の杜の風 "
樟葉

【その1/4 概要】

月   日 平成23年9月15日(木)
集合場所 京阪樟葉駅 改札出口
順 路 京阪樟葉駅 → 安養寺 → 市民の森公園 → 交野天神社・樟葉宮跡の杜 (継体天皇即位伝承地) → 和気神社と足立寺史跡公園 → 砲台場跡  → 久修園院 →解散→ 樟葉京街道 → 京阪橋本駅or京阪樟葉駅
その他 1)枚方観光ボランティアガイドの柿崎むつ枝さんにガイドをして頂きました。
   暑いところ何度も下見調査もして頂き本当に有り難うございました。
2)久修園院では、奥さんに丁寧な説明をして頂きました。
   本当に有り難う御座いました。
天   候 晴れ
 樟葉は京阪電鉄が沿線開発を重点的に行ってきた土地であり、高層マンションや住宅が建ち並び、くずはモールなど商業施設も充実しおシャレな町になっています。
住所名としては「楠葉」となっている。
 今から1500年前の507年に河内国樟葉の「樟葉宮」において第26代継体天皇が即位されました。
「樟葉宮」は511年10月に山背国(やましろのくに)筒城(つつき)(京田辺)に宮を移すまでの約5年間、継体天皇の都でした。
 「楠葉」は丹波から流れてくる「桂川」、琵琶湖から流れてくる「宇治川」、大和から流れてくる「木津川」の3つの川が合流して「淀川」となって瀬戸内海へと続く重要な地点にあります。
「古事記」によると「久須波(くすは)」といい、「建波邇安王(たけはにやすのみこ)の軍が敗走して川の渡りに殺到した時、敗走兵は糞が出て袴に付いた状態だった」という事から「くそばかま」と言われ、それが訛って「くすは」になったと書かれています。
(日本書紀にも同様のことが書かれている) この事から古くから川の渡場があり、「久須波の渡り」と言われていたようです。
そして、近くの河川の草地では「牧場」が設けられていて「馬」を飼い、「楠葉津」には多くの「船」が出入りしていたようです。
古代において「河川」は重要な「物流」と「情報」・「軍事」の幹線であり、これを支配することで「物」や「文化」および「情報」をいち早く得ることが出来ました。
また、古代道「山陽道」沿いにもあたり、陸上からも素早く九州へ行くことが出来ました。
因みに「都」から「九州 太宰府」へ向かう古代官道「山陽道」は非常に重要視され、官道の中で唯一「大路」とされました。
この様に「樟葉」は交通の要衝であり、軍事上も重要な拠点であったと言われています。

安養寺(大阪府枚方市南楠葉2丁目38-17)
安養寺(あんようじ)には、1970年(昭和45年)に府の有形文化財に指定された石製露盤がある。
露盤(ろばん)は、塔の九輪の最下部にある方形の台で、雨仕舞(劣化防止)の役割を果たす建築部材である。
屋根頂部に置くので、上に宝珠を載せ装飾も兼ねる。
多くは、青銅・鉄・瓦製なので、石製の露盤は極めて珍しい。
この露盤は凝灰岩製で、風化して四角の一角が欠けているが、原型をよくとどめている。
底面は一辺が110センチメートルの正方形で、高さは 38.5センチメートル、中央のほぞ穴は直径38.5センチメートル、深さ11.7センチメートル、穴の周囲には、八葉複蓮華文が刻まれている。

鏡伝池緑地・市民の森 枚方市楠葉丘2-10-1
「鏡伝池」(きょうでんいけ) 最初は比較的大きな池であったが、いつの頃か中堤防によって上池と下池に分けられ、現在では、下池は埋め立てられて運動場になり、上池も市民公園として整備されて狭められてしまっている。
 この池は、古来、月の名所とされていた。
続古今和歌集の巻第十八雑歌中に収められている藤原実経(さねつね)の歌、「くもらじな真澄の鏡影そうる樟葉の宮のはるの夜の月」 は、この鏡伝池に映る春の夜の月を詠んだものである。
「市民の森」鏡伝池を中心に、花の森、せせらぎの森など8つのゾーンを、園路や橋で結んだユニークな緑地です。
また、管理事務所には、緑化教室などを開く緑の会議室、図書室、展示室も設け、市民の憩いと健康の場になっています。

樟葉宮跡の杜 枚方市楠葉野田2丁目19−1
 「樟葉宮跡」 交野天神社の後方北東境内地に26代継体天皇が507年に即位した樟葉宮跡と伝わる小高い丘がある。
 『日本書紀』によると、25代武烈天皇の死後、大連大伴金村らによって越前の三国から、応神天皇5世の孫、男大迩王(おおど)を迎え、 ここ河内楠葉宮で即位した。
その5年後に山背国筒城宮(やましろのくにつつき:現京田辺市付近)、12年後に弟国宮(おとくに:現長岡京市付近)に移っており、 大和の国に入ったのは20年後のこととされる。
ただし、この樟葉宮以降の都の移転は『日本書紀』には記載されているが、『古事記』には記載されていないことから、樟葉宮から山城国を経由せず、直接大和国に入ったのではないかとする説もある。
1933年(昭和18年)に大阪府史跡に指定されている。
「交野天神社」(かたのあまつかみのやしろ)
 「平成16年に神社の本殿が桧皮葺き替えと彩色修理が行われ、色あでやかになった。
宮跡と推定される場所には末社「貴船神社」が祀られているが、現地の説明板には「貴船神社は村の産土神で穂掛神社とも呼ばれていた。元は現在の天神社があった所にあったものを、宮跡に移したと伝承されている」とある。
社殿の建立年代は不明であるが、一間社流造、桧皮葺で、建築様式から見て、桃山時代に遡る意向と見られ、平成16年枚方市の有形文化財に指定されている。
祭神は高おかみ神(たかおかみ)と継体天皇が合祀されている。

和気神社と足立寺史跡公園 京都府八幡市男山足立
和気神社(わけじんじゃ)のご祭神は、和気清麻呂。
護王の神・学問の神・建築の神・医学の神として仰がれた和気清麻呂は、道鏡に両足を切られ、海に流されたが、宇佐の浜に標着、猪の背に乗り、宇佐神宮へ参拝し、涙ながらに祈ると足が元通りになり、歩けるようになったという。
そのお礼に男山に寺院を建てたのが足立寺(そくりゅうじ)というのですが・・・。
出土品の鑑定等から奈良時代前期の白鳳時代の寺とみられ、清麻呂より100年程早いという事のようです。

足立寺史跡公園(そくりゅうじしせきこうえん)
中央に三角形の巨大石は、塔の心柱を支える塔心礎で、直径36cmのほぞ穴があり、北側に突き出した小さな窪みは、舎利孔です。
全国で唯一の珍しいもので、貴重な文化財です。
復元された瓦窯(半地下式平窯)が有ります。(今回は時間の関係で見学しなかった)
奈良時代末から平安時代にかけてのもので、船底形の部分は、燃料を燃やす所。
焚き口には二つの石を立ててせばめています。
奥の一番高い所が、焼成部で燃焼部との間は窓のついた障壁で区分されていて、床には7本のロストルがあります。
三本の煙突を持つ構造は、全国でも珍しいとのこと。

樟葉砲台跡 枚方市楠葉中之芝町
鳥羽伏見の戦の時、樟葉砲台は旧幕府軍の小浜藩が守っていた。
淀川を挟んで対岸の高浜砲台は津藩藤堂家が守っていたが、津藩は旧幕府軍の不利を見て新政府軍に寝返り小浜藩が守る樟葉砲台に砲撃を加えてきた。
※高浜台場跡 砲台跡は高浜と広瀬との境界付近にあり、現在は河川敷ゴルフ場になっています。

久修園院 枚方市楠葉中之芝2丁目46
久修園院(くしゅうおんいん)は、行基菩薩の発願で起工されたお寺で、行基四十九院のひとつ、通称「釈迦堂」、または「木津寺」として親しまれています。
創建当時の境内は七堂伽藍が建ち並んだ大寺で、聖武天皇の勅願所でありました。
しかし年を経て、大阪夏の陣の元和元年(1615)に至り、豊臣方の敗走兵が当院に逃げ込み放火自殺した事により堂塔はことごとく消失しました。
その後、延宝八年(1680)、中興の祖・宗覚律師により再興されました。
宗覚律師は博識多芸で儒仏はもちろん医学・宗教学・地理学・天文学・武芸・音楽・絵画・彫刻などに通じた、枚方が生んだ偉大な文化人でもありました。
慶応四年(1868)の「鳥羽伏見の戦い」の際、旧幕府軍が当院を橋本本営として本陣を構えたと言います。
境内の愛染堂にお祀りしている愛染明王坐像は、高さ6尺(約2メートル)と日本最大級のサイズを誇る愛染明王さまで、当院を復興した宗覚律師の御作です。
律師が人生の後半に至ってもなお律師を思う母の心の深さに思いを致し、母の死後8年目に彫り上げられたと伝えられています。

樟葉京街道
京阪樟葉駅から京街道を北へ歩くと、町楠葉のあたりで、白壁づくりの蔵や楠の木陰の残る、旧家のたたずまいを見ることができます。
光明院あたりから東へ歩くと、閑静な住宅街が見えてきます。そこは北楠葉町で、八幡市との境にありますが、昭和49〜50年に行われた楠葉東遺跡の発掘調査で、ここから大昔の土器や瓦が大量に出土し ました。
平安時代の歌謡集『梁塵秘抄』[りょうじんひしょう]の中には、「くずはの御牧[みまき]の土器つくり…」というくだりがあり、楠葉が朝廷の牧場であると同時に土器製造地であったことをしのぶことができます。また、飛鳥時代に聖徳太子が創建したといわれる四天王寺には、楠葉でつくられた瓦が使用されていたことも判明しました。
しかし、今ではその名残もなく、土器や瓦が出土したことを記念した説明板が、北楠葉公園と公園北側の住宅街にひっそりと立っているだけです。
瓦窯跡は枚方・八幡両市にまたがっており、八幡市域の遺構も含めて楠葉平野山瓦窯跡群と呼ぶ。

久修園院の遠景

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