わがまち紹介
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平成23年8月 わがまち紹介
" 森林に囲まれた沢と滝のあるまち "
出灰

【その4/4 せせらぎの里「今城文化民芸館」】


「せせらぎの里・今城文化民芸館」
高槻の焼物「今城焼」の展示、販売を行っており、ギャラリースペースもあり、陶芸教室を開催されてます。
薪窯焼きコーナーでは、窯焼きを見ながら食事が出来ます。
奥には畳敷きの和室に、ゆったりしたソファがあり、窓からの景色が抜群でゆっくりくつろげます。

城文化民芸館の入り口

陶芸品の展示

せせらぎの里は、以前は水車の音を聞きながら、川魚料理や地鳥のすき焼きが味わえた。
マス釣りやアユのつかみ取りが出来、宿泊も出来ました。
その場所に「今城城文化民芸館」が出来たのです。

「今城城文化民芸館」では、都会の喧騒を離れて、ゆっくりと地元で採れた旬の野菜を使って石窯で焼いたピザを今城焼窯の皿に乗せられて出されます。
ビールも大きな今城焼のコップで出されひときわ美味しい。

槻輪の懇談会

今城焼窯元 FIELD 土香
大阪と京都の間に位置する高槻の地は、古代における焼き物の中心的な生産地でした。 FIELD土香は、この地に工房を構え、古代の焼き物を現在に再現した「今城焼」の制作をはじめ、陶芸文化の発信地としてさまざまな活動をされています。
備前焼などと同じで、今城焼は完成された釉薬を掛け焼くというのではなく、灰や土が自然に交じりあったものが、窯の中で様々な窯変をおこしながら発色しています。

屋外・屋内の展示

近くの民家


ジョッキーでビールを乾杯
日本の黎明期、高槻はその重要な陶芸文化発信の地でした。「日本書紀」には、この地に日本最古の大規模な官立の陶芸工房や多くの窯が稼働していたことが記されており、事実、新池埴輪製作遺跡では5世紀中頃から6世紀中頃にかけて、のべ18基の窯跡が出てきました。
また、発掘された土器には様々に施された「水滴文様」や古代朝鮮「新羅・伽耶文化」を継承した様式等も窺え、まさに日本の本格的陶芸文化の源初の地のひとつだったことが想像できます。
この高槻の古代陶芸文化は、皇室にもむすびつくものであるとされ、第26代継体天皇(507年〜533年)は、この地に自らの大規模な天皇稜を築き埋葬土器や埴輪を造らせるほどでした。
この地で営まれた陶芸の技術と生産は、5世紀から9世紀頃には瀬戸・猿投方面にほとんど移り、これらの地が日本の陶芸文化の中心的地位を占めるようになっていきました。そして、いつしか高槻を含む北摂の陶芸の地は人々から忘れられていったのでした。
陶芸家・安見一念を中心とする陶芸集団「窯龍会」は、古代東アジア陶芸文化の研究の中で、古代朝鮮新羅伽耶陶芸文化の伝播経路から、日本の陶芸文化のルーツ的存在の一つでもある、この地域の陶芸文化の歴史的重要性をふまえて、その忘れられた文化の、現代への復興を行ってきました。
FIELD土香の北側には、二重の堀をめぐらした巨大な前方後円墳が隣接しています。この古墳は、太古の時代、日本文化発展に多大な貢献をした継体天皇の墓(継体天皇陵)であるともいわれており、今城塚古墳です。今城焼の名はこの地にちなんで命名されました。

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