わがまち紹介
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平成23年8月 わがまち紹介
" 森林に囲まれた沢と滝のあるまち "
出灰

【その1/4 概要】

月   日 平成23年8月18日(木)
集合場所 JR高槻駅北市営バスA乗り場
順 路 JR高槻駅北市営バス停 → 出灰バス停 → 素盞鳴神社 → せせらぎの里 「今城文化民芸館」 → 出灰不動尊 → 滝 → 船宮神社 → 尸陀寺跡  → 出灰バス停 → JR高槻駅北市営バス停
その他 1)出灰不動尊は、説明と祈祷をして頂きました。
2)せせらぎの里「今城文化民芸館」では見学と説明していただきました。
天   候 晴れ
森林に囲まれた沢と滝のあるまち 動画を見るをクリックして頂くと動画もご覧頂けます。
 「出灰」を読めますか。「いずりは」と読みます。
出灰バス停には、「出灰伝説絵図」があります。出灰は出灰川・田能川・流谷川が合流する場所です。
高槻から亀岡へ行く府道(6号線)で北に行くと両国橋が有るのをご存じですか。丹波の国と山城の国の二つを結ぶ橋なので、そういった名前がついているそうです。
いまでも、大阪府と京都府の府境になっています。府道と分かれて、出灰川の右岸沿いに車道を歩く。
この道は『緑の郷』のハイキングコースとして高槻市が指定しています。
車も殆ど通らない舗装道路です。山際には野仏も道行く人を見守っています。
「出灰(いずりは)」の地名は、古来、石灰を産出し、朝廷に納めていたことによるという。

出灰 素盞嗚神社(いずりは すさのおじんじゃ)と(かつら)
素盞嗚神社は、創祀は不詳ですが、素盞嗚命を祭神とし、創建年代は本殿前にある灯籠に刻まれた年号から元禄年間(1688〜1704)までさかのぼることができます。
出灰村の村社で牛頭天王社。御祭神は素盞鳴命。
素盞鳴神社は流谷川の左岸に鎮座します。
境内には神仏習合時代の牛頭天王の灯籠が残り、鳥居左の御神木の巨大な「桂」は合併前(平成14年)は京都府、現在は大阪府の天然記念物に指定されています。
出灰素盞嗚神社のカツラは、素盞嗚神社の鳥居の東側に接して立っており、根元から大中小10本の幹がまじわって株立状にそびえている。
中心になる幹は周囲3.5mの古木であるが、幹の集合体としての幹周は8.0m、樹高が28.7mの巨樹であり、樹齢300年前後と推定される。
カツラは冷温帯の落葉広葉樹で、大阪府下では、高槻と能勢町の山間地域にだけ自生していることが知られている。

せせらぎの里「今城文化民芸館」
「農」と「陶」の融合をテーマに平成21年11月にリニューアルオープンしました。
陶芸家安見一念さんは、「日本書紀によると高槻の地は、大和政権にとって大変重要な地で太古より素晴らしい文化が育っていました。
この文化を源初として今城焼窯元陶芸教室を開設されました。
地野菜を使った軽食(石窯ピザ、コーヒーなど)や陶芸体験が可能です。ギャラリーも併設されています。

出灰不動尊
森林に囲まれた沢の谷間にある出灰不動尊は、美しい水、きれいな空気、さわやかな風、に囲まれた "気" が満ちあふれる滝です。
この出灰不動尊は1300年前より、この地においでだと伝えられています。
不動明王は、大日如来の化身といわれております。
一見恐ろしい姿をしておいでですが、この世の人々みんなを救うという、大誓願をおたてになっておられます。
激しい憤怒のお姿で、災魔を降伏させられます。
不動明王様の教えに背き間違った道に進もうとする人々を、右手にお持ちの剣で障害を打ち砕き、 左手にお持ちの索(つな)で、人々を力強く正しい道に引き寄せる働きをなされております。
その慈悲は、不動明王の頭頂にある、蓮華の華で全ての人々を、苦難より共済しようという、大きな慈悲の心で満ちあふれておられます。
毎年2月の第2日曜日に厄除けに効果があると評判の火渡が行われ大勢の見物客でにぎわう。

船宮神社
御祭神は船玉大神。
正暦4年(993年)一条天皇の勅使として子孫の菅原為理が太宰府に下向し、道真公に左大臣の位を追贈した帰途、舟で上田辺村(高槻市役所の西付近)に上陸したのを記念して船の宮を建てたと伝へる。
市役所建設のため、現在は出灰に移設され、出灰川沿ひの道に面して鎮座します。
対岸には京都市の大原野出灰集会所があります。
大阪府高槻市天神町の上宮天満宮の末社で、上宮天満宮の先代の宮司がこの地に天神出灰農場といふものを拓き、その鎮守として平成4年に遷座したもののやうです。
鳥居はなく、白塀に囲まれた小さな社です。

樫田・尸陀寺 (しだじ)
尸陀寺跡は、室町時代中期の禅僧で、「一休咄(はなし)」でも知られる一休禅師が開創した草庵(尸陀寺)跡と伝えられています。
一休は、応永元年(1394)の誕生で、名を宗純、号を狂雲といい、後小松天皇の子といわれています。
6六歳で仏門に入り華曳宗雲に師事した一休は、17歳で悟道の境地に達し諸国を行脚しました。
一休が当地を訪れたのは、嘉吉2年(1442)49歳のときといわれ、「一休和尚年譜」には、「師初めて譲羽山」に入る。民家を借りて住す。山居の偈あり。後尸陀寺を創して徒る焉」とある。
それから五年後の文安4年、京へ戻っていた一休は、俗世の争いによる厭世観から、死を決して再び当寺を訪れる。
しかし、後花園天皇は、詔勅を送ってこれを思い止めたという。
晩年の一休は、兵火に焼けた大徳寺の第四八代住持として同寺の復興にあたり、文明13年(1481)、酬恩庵(京都府綴喜郡田辺町)で88歳の生涯を終えました。
なお尸陀寺は当地より約二百メートル上方に位置していたといわれ、石碑は、昭和37年地元自治会の手によって建立されたものです。

出灰バス停の出灰伝説絵図

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