鵜殿一帯は、奈良時代には都の牧場として使用されていた。 鵜殿の地名については、紀元前88年に起きた建波邇安王の乱以後、敗軍の将兵が追い詰められ淀川に落ち鵜のように浮いたので、一帯を「鵜河(川)」と呼ぶようになったと『古事記』に書かれており、 平安時代に鵜河の辺に造られた宿を「鵜殿」と呼び、それが土地の名になったと言われている。 |
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2011年2月20日(日)は、3月の気温で風もなく、ヨシ焼きの最適日となりました。 神保吉孝会員が、最近“雅楽”を習い始め、篳篥(ひちりき)を持参してくれました。 篳篥は、雅楽の重要な楽器です。 篳篥は、蘆舌(ろぜつ)を本体に差込み、その振動を増幅しあの独特の音色を出します。 篳篥で音を出す部分(蘆舌)に高槻の鵜殿のヨシが使われています。 衆議院議員の辻本清美氏の名刺は、鵜殿のヨシを原料とした紙とのことです。 |
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篳篥を吹く神保氏/篳篥・蘆舌 |
篳篥を吹く/聞き入る辻本議員 |
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鵜殿村(現在の道鵜町・萩之庄・井尻・上牧のあたり)は、山崎や柱本などとともに古くから歴史に登場します。 紀貫之の『土佐日記』には、承平5年(935)に、貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述があり、一行が鵜殿に宿泊したことがうかがえます。 鵜殿のヨシ焼き行事は、淀川の自然、文化、伝統を守り、良質の葦の生産、害虫の駆除、不慮の火災の防止などを目的に毎年行われています。 |
蘆舌はいくつかのパーツによって構成されていますが、音を出す部分は葦(ヨシ)という植物でできています。この葦は鵜殿のヨシです。切り取ってから3年くらい乾燥させてから使用されます。 鵜殿では、鵜殿のヨシで編んだヨシズが盛んに生産され、宇治の茶園や高槻市山間部の原・塚脇地区の寒天製造者に送られていました。 しかし寒天業の縮小とともにヨシズ製造も規模が小さくなっていきました。 |
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次々点火されて広がって行く |
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多くのヨシ焼き見学者 |
煙で太陽も隠れる |
鵜殿の葭原記念碑 |