わがまち紹介
目次へ|戻る(その3/5)次へ(その5/5)

平成23年1月 わがまち紹介
 " 福祉と歴史のまち散策":富田町・昭和台町  
【その4/5 慶瑞寺その1】

慶瑞寺は、祥雲山と号して黄檗宗に属し、観世音菩薩を本尊とします。
持統天皇8年(694)、宇治橋架橋などで知られる僧道昭が創建し、法相宗に属して景瑞寺と呼ばれていたと伝えられています。
江戸時代初期には、景瑞庵と呼ばれ荒廃していましたが、寛文元年(1661)頃、普門寺の龍溪が再興しました。
慶瑞寺と普門寺は切っても切れない関係にあります。

慶瑞寺山門

慶瑞寺庫裡

慶瑞寺は、江戸時代初期には荒廃し、寺ではなく景瑞庵と呼ばれるまでになっていたが、寛文元年(1661年)頃、隠元隆gの弟子であり、黄檗宗大本山である萬福寺創建に尽力したことでも知られる普門寺の僧、龍渓性潜が入山して寺号を慶瑞寺と改め再興した。
普門寺は、大阪府高槻市富田町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は慈雲山。本尊は釈迦如来、十一面千手観音菩薩。

"木造菩薩坐像1989年6月12日、国の重要文化財に指定された。
像高57.4cm。作風から8 - 9世紀の作と推定される。切れ長の眼と眉、細身の体躯など、特異な作風を示す。
伝来は不明であるが、寛文5年(1665年)、後水尾法皇より念持仏の「香 木観音」が慶瑞寺に寄進されたことが記録に見え、それが本像にあたるものと推定されている。

慶瑞寺山門前にて記念撮影

境内・本堂

本堂内部

本殿内部

普門寺城に幕府あり
 芥川城主の三好長慶によって、管領を追われた細川晴元が出家し、普門寺に隠棲し、1563年に没します。その頃、三好三人衆が13代将軍、足利義輝を殺害し、義栄を擁立、政情不安の京都を避け「普門寺城」で、1568年に征夷大将軍となりました。
富田に普門寺城があったのです。
 当時の普門寺城は、三輪神社や本照寺周辺も城郭の一部だったようで、三千余騎が守護し「10の伽羅が並び、二重の堀がめぐらされ、6千坪」と伝えられています。
 戦国時代の公家、山科言継(1507〜79年)の日記によると、富田は将軍の御座所として機能し、多くの奉公衆や側近を構えていたのです。
 その後の足利義栄は、織田信長に追われて7ヶ月の短命政権で病没。悲劇の将軍といわれ、日本の歴史上、本拠地に入ることなく終わった征夷大将軍は、義栄と江戸幕府の徳川慶喜の二人といわれています。
「普門寺は御座所の役を果たしました。日本広しといえども征夷大将軍に任じられた場所が、京都でも江戸でもないのは『富田のみ』!」
 月間新聞「きつつき21」73号より
昭和中後期頃までには大規模な堀や土塁が残っていたようであるが、現在は境内の北側に土塁跡がわずかに残っている程度である。

このページの先頭へ戻る