わがまち紹介
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平成22年10月 わがまち紹介
" 古代から水運で栄えたまち ":柱本・三島江
【その3/6 淀川について】

 近畿の水甕と言われる琵琶湖に源を発し、大阪湾に注ぐこの川は、中国名では、「澱江(でんこう)」とも呼ばれている。古くより舟運・灌漑用水・飲料水等、流域住民の生活には多大の恩恵を与えてきた川である。と、同時に洪水という不安を常に供した川でもある。
更に、古い時代には「鵜河」という名がつけられていたことが、「古事記」にあるし、又、「日本書紀」には、「北の河」。「難波古図」には「山崎川」・「近江川」という表記がある。
 舟運として代表されるのは、「三十石船」で、人を運び、京・大阪の流通を支えてきたのであるが、その他、遊楽の船・商いの船等、淀川筋の特権的な営業権をもっていた「過書船」「伏見船」がある。
更に、「くらわんか船」とも言われる「茶船」は、「三十石船」等の乗船客や船頭に、湯茶や食べ物を売ることを商売とした船等は、よく知られた淀川の有名な船である。(くらわんか船については、後述に)。
先述のごとく、この川の与えた公害は、洪水であるが、資料によると、推古天皇(601年)9年より、大正(1925年)14年までの約1325年間に250余回もの洪水があったと記されている。
和銅2年(709年)・天平14年(742年)・勝宝6年(754年)・宝亀元年(770年)・延暦8年(784年)・同18年(799年)・同23年(804年)・天長9年(832年)・延喜8年(905年)・延長7年(929年)・嘉永3年(1183年)・文治元年(1185年)・慶永34年(1427年)・天文13年(1543年)・天正18年(1590年)・文禄3年(1594)年・慶長13年(1608年)・元和4年(1618年)・寛永5年(1628年)・同10年(1633年)・慶安3年(1650年)・明暦元年(1655年)・萬治元年(1658年)・同3年(1660年)・元禄3年(1690年)・正徳3年(1713年)・享保13年(1728年)・同20年(1735年)・宝暦6年(1756年)・明和元年(1764年)・安永7年(1778年)・文化4年(1807年)・同13年(1816年)・嘉永元年(1848年)・明治元年(1866年)・同3年(1870年)・同5年(1872年)・同6年(1873年)・同9年(1877年)・同11年(1878年)・同11年(1878年)・同15年(1882年)・同18年(1885年)・同22年(1889年)・同29年(1896年)・同36年(1903年)・大正6年(1917年)・同7年(1918年)・同10年(1935年)・同13年(1938年)・昭和7年(1932年)・同28年(1953年)等
 特に、徳川期の三大洪水は、「慶長・宝暦・享和」の洪水である。
 唐崎の淀川堤に大小二基の記念碑があります。
黒く小さい碑は、「修堤碑」と横書きで記され、下に縦書きで文面が書かれています。明治18年の洪水で、左岸の現枚方の伊加賀村付近と右岸の現高槻市の前島村付近で堤防が決壊し、甚大な被害を受けたことから当時の大阪府知事「建野郷三」氏の呼びかけで、流域庶民の洪水に対する意識の高揚をかねて、「修堤工事」を企画し、協力のもとにこれを実現したことを記したものである。
今一つの大きい碑は、縦書きに「明治戊申唐崎築堤碑」と記されていて、明治元年に当時の当地の村長「木村孫太郎」氏が、各村総代の協力により洪水による被害地唐崎の堤防築堤に尽力された大阪府の「関 義臣」氏の功績をたたえて建立されたもの。

昭和62年6月22日、「淀川右岸拡張工事にともなう、移転事業により」現在地に整備、設置された。(当時の四ケ村自治会長尽力される)

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